後漢書卷九十五 皇甫張叚列傳第五十五 皇甫規

羌戦をめぐる建言と不遇

  • 皇甫規、字は威明、安定郡朝那の人。祖父の稜は度遼将軍、父の旗は扶風都尉。
  • 永和6年(141年)、西羌が大挙して三輔を侵し安定を包囲した際、征西将軍馬賢が諸郡兵を率いて撃ったが勝てなかった。規は布衣の身ながら賢が軍事を顧みず必敗を見抜き、上書して的中させた。案の定、賢は羌に敗死した。
  • 郡将は規の兵略を認め功曹とし、規は甲士800を率いて羌と戦い数級を斬って退けた。上計掾に挙げられたのち、羌の大軍が隴西を攻めた際、規は自ら効を求めて上疏し、辺将が綏撫を誤って侵掠と小利争いを招いていること、勝てば首級を偽り負ければ隠蔽する軍の実態を批判し、安定・隴西の屯田兵5千を借りて護羌校尉趙冲と呼応し奇襲を行いたいと願い出たが、桓帝は用いなかった。
  • 沖・質帝の間、梁太后が臨朝した際、規は賢良方正に挙げられ対策で、順帝の初政は良かったが姦偽が近習に権を分け、梁冀ら外戚が権勢を恣にして征戦のたびに損害を出していることを批判し、大将軍梁冀・河南尹梁不疑に謙節を修め儒術を輔けとするよう求め、「君は舟、民は水」の喩えを引いて梁氏兄弟に自省を促し、宿悪の徒を退けるよう説いた。梁冀はこれを怒り、規を下第として郎中に落とした。
  • 規は病と称して官を辞し帰郷、州郡が冀の意を受けて陥れようとする中、詩・易を教授すること14年に及んだ。
  • 梁冀誅殺後、旬月のうちに5度招聘され、太山の賊・叔孫無忌の乱を平定できずにいた中郎将宗資に代わり太山太守に拝され、着任するとまもなく賊を平定した。
  • 延熹4年(161年)、叛羌の零吾らが関中を侵し、護羌校尉段熲は罪に問われて召還された。規は羌事に通じており、自ら西州出身で郡将の失政による反乱を長年見てきたと述べ、猛将よりも清平の政こそが必要と説き、単車の使者として辺境を鎮撫したいと願い出た。三公は規を中郎将・持節監関西兵として推挙し、規は零吾らを破って800級を斬り、先零諸種の羌は規の威信を慕って十余万が降った。
  • 翌年、隴右討伐に向かう軍中で大疫が起こり死者が3、4割に及んだが、規は自ら庵廬に入り将士を見舞い、三軍は喜び東羌もついに降を乞い、涼州との交通が回復した。
  • このころ安定太守孫儁の不正、属国都尉李翕・督軍御史張稟による降羌の濫殺、涼州刺史郭閎・漢陽太守趙熹の無能と権貴への阿りがあり、規はこれらの罪をことごとく上奏して免官・誅殺させた。羌人はこれを聞いて服し、沈氐の大豪滇昌・饑恬ら十余万口が規に降った。
  • しかし規は宦官と一切交わらず多くを弾劾したため中外に恨まれ、羌に賄賂を贈って偽りの降伏を演出したと誣告された。規は上疏して自ら弁じ、羌を服させ国庫の1億以上の費用を節約したこと、5人の高官(孫儁・李翕・張稟・郭閎・趙熹)を弾劾したことで多くの怨みを買ったこと、賄賂の噂は文簿で容易に確かめられることを述べ、匈奴に宮女を、烏孫に公主を送った前例を引きつつ、自分は千万銭も費やしていないと反論した。
  • その冬、召還され議郎を拝したが、功に対する封を巡り中常侍徐璜・左悺が賄賂を求めて使者を送ったのに規が応じなかったため、両者は怒って前事で陥れ、廷尉に下され左校に労役させられた。太学生張鳳ら300余人が闕に赴いて訴え、恩赦により帰郷した。
  • 度遼将軍に召拝され、数月後、自ら中郎将張奐を後任に推挙する上書をし、朝廷はこれに従い奐が度遼将軍に、規は使匈奴中郎将となった。奐が大司農に遷ると規は再び度遼将軍となった。
  • 規は退隠を望み病と称して辞職を願い出たが、友人の上郡太守王旻の喪に際し縞素で軍営を越えて弔問に赴いたことを、并州刺史胡芳に「軍営を離れた」と密告する者があった。芳は「威明は退隠を望んでいるからこそ私を刺激しているのだ、朝廷のためにその才を惜しむべきだ」として問わなかった。
  • 党錮の禍が起こると、名賢の多くが連座した中、規は自ら「かつて張奐を推挙したのは党人に附いた行為であり、左校の労役の際に張鳳らが訴えたのも党人に附された証だ、自分も坐すべきだ」と自ら申し出た。朝廷はこれを問わず、当時の人々は規を賢者とした。
  • 永康元年(167年)、尚書に召され、その夏の日食に際し賢良方正を挙げる詔が下ると、規は対策で「天が王者に対するは君が臣に対し、父が子に対するのと同じ」とし、8年間に3度大獄が起こり(梁冀誅殺・鄧万世誅殺・李膺ら党人誅殺)内嬖(鄧皇后廃位)を除き外臣(任𦙍・成瑨・劉質ら)を誅したにもかかわらず災異が続くのは賞罰の理が適切でないためだとし、廃されたままの陳蕃・劉矩、恨みを買い放逐された劉祐・馮緄・趙典・尹勲、宰相への道を絶たれた李膺・王暢・孔翊らを惜しみ、鉤党の禍が無実の者に及んでいることを訴えた。上奏は顧みられなかった。
  • のち弘農太守に遷り、壽成亭侯に封じられたが辞退した。護羌校尉に再任され、熹平3年(174年)病により召還される途上、穀城で71歳で没した。賦・銘・碑・讃・禱文・弔章・表・教令・書檄・牋記など著作は全27篇。

史論

  • 孔子の「言を恥じなければ実行は難しい」という言葉を引き、皇甫規はまさにその言に恥じぬ人物であった、功を求めても貪とされず賢者に位を譲っても求めての謙譲ではなかった、それゆえ戎狄との戦で功を成し、国家の中で身を全うできたのだと評した。