後漢書卷九十四 吳延史盧趙列傳第五十四 趙岐

若き日と潔癖な気性

  • 趙岐、字は邠卿、京兆長陵の人。初名は嘉、御史台で生まれたため字を臺卿としたが、のちに難を避けて改名し、字も改めて本土を忘れぬ意を示した。
  • 若くして経学に明るく才芸があり、扶風の馬融の兄の娘を娶ったが、外戚の豪家である融を常に卑しんで会おうとしなかった。
  • 州郡に仕え、廉直さと悪を憎む姿勢で憚られた。30余歳で重病を得て7年臥せった際、自ら遺言を作り、甥に「大丈夫として生まれ隠遁するにも許由のような節操なく、仕えるにも伊尹・呂尚のような功なし、天が我に味方せぬ」と述べ、墓石には「漢に逸人あり、姓は趙、名は嘉。志ありて時なし、命なり」と刻むよう命じた。のちに病は癒えた。
  • 永興2年(154年)司空掾に辟され、二千石が親の喪に服すため職を辞すべきことを議して朝廷に容れられた。のち大将軍梁冀に辟され、損益と求賢の策を陳べたが冀は納れず、皮氏長として理劇に任じられた。
  • 河東太守の交代に際し中常侍左悺の兄・左勝が後任となったが、岐は宦官に仕えることを恥じて京兆に帰り、延篤のもとで功曹となった。中常侍唐衡の兄・唐玹が京兆虎牙都尉となった際、岐と従兄の襲が幾度も玹を貶める議論をしたため深く恨まれた。
  • 延熹元年(158年)、玹が京兆尹となると、岐は禍を恐れ甥の戩とともに逃避した。案の定、玹は岐の家族・宗親を重罪に陥れて皆殺しにした。
  • 岐は四方に難を逃れ、江淮・海岱を巡り、姓名を隠して北海の市で餅を売った。安丘の孫嵩がただ者ではないと見抜いて車に乗せ、密かに事情を問い、自らの一族の力で助けられると告げた。岐は嵩の名を聞き知っていたため事情を打ち明け、共に嵩の家に帰った。嵩は母に「死友を出迎えて連れ帰った」と告げ、上堂で歓待し、岐を複壁の中に数年匿った。この間に岐は「戹屯歌」二十三章を作った。
  • 唐氏一族が滅んだのち赦されて世に出ると、三府が同時に辟召し、9年を経て司徒胡広の招きに応じた。南匈奴・烏桓・鮮卑の反乱に際し公卿の推挙で并州刺史に擢され、辺境防衛の策を上奏しようとしたが、党事に連座して免官となり、代わりに「禦寇論」を撰した。
  • 霊帝の初め再び党禁に遭い十余年を経て、中平元年(184年)四方に兵乱が起こると、文武の才ある旧刺史・二千石を選ぶ詔により議郎に召拝された。車騎将軍張温の西征に従い長史として関中に赴き、別に安定に屯した。大将軍何進の挙で敦煌太守となる途上、襄武で新任の諸郡太守数人とともに賊の辺章らに捕らえられたが、詭辞を弄して脱し、長安に転戦して帰った。
  • 献帝が西の長安に都した後、再び議郎に拝され太僕に遷った。李傕が政を専らにした際、太傅馬日磾が天下を撫慰する副使として岐を用いた。日磾が洛陽に留まる一方、岐は各地を巡って国命を宣揚し、百姓は「今日にしてまた使者の車騎を見た」と喜んだ。ときに袁紹・曹操が公孫瓚と冀州を争っていたが、両者とも岐の到来を聞いて自ら兵を率いて出迎え、岐は天子の恩徳を説いて兵を罷め民を安んじる道を陳べ、公孫瓚にも書を送って利害を説いた。紹らは兵を引き、洛陽で車駕を迎える約束をしたが、岐は陳留で重病を得て2年を経ても果たせなかった。
  • 興平元年(194年)、帝が洛陽に還る際、先に衛将軍董承が宮室を修理していたところ、岐は「今、海内は分崩しているが荊州のみは境域が広く地の利があり、西は巴蜀に通じ南は交趾に当たり、独り豊作で兵民も無事である」と説き、自ら牛車で南下し劉表を説いて朝廷を助けさせることを申し出た。董承は表を上げて岐を荊州に遣わし租糧を督させ、岐が至ると劉表は洛陽に兵を遣わし宮室修理を助け、軍資の輸送が絶えなかった。
  • 当時、孫嵩も表のもとに身を寄せていたが礼遇されていなかったため、岐は嵩の篤実な行いを称え、共に推挙して青州刺史とした。岐自身は老病のため荊州に留まった。曹操が司空となったとき、自らの後任として岐を推挙し、光禄勲桓典・少府孔融も上書して推薦したため、太常に拝された。90余歳、建安6年(201年)に没した。
  • 生前、自ら寿蔵(墓所)を築き、季札・子産・晏嬰・叔向の四像を賓の位に、自らの像を主の位に描かせ、それぞれに讃頌を作った。子に「死んだ日には墓中に砂を積んで牀とし簟を布き、白衣で髪を散じたまま単被で覆い、その日のうちに埋めよ」と命じた。
  • 著作に『要子(孟子)章句』『三輔決録』などがある。

史論

  • 論じて言う。呉祐は温かく義を愛し剛烈であった(義をもって梁冀と争い李固を守ったことを指す)。延篤は字(あざな)どおり人柄が穏やかで、恩を結び梁氏(梁冀)の使者を処断して党人を誣告する動きを密かに絶った。盧植は文武の資質を兼ね、師事した学統は正統であった。趙岐は国境を出て使命を専断し朝廷の威を示した。