後漢書卷九十四 吳延史盧趙列傳第五十四 盧植

學問と剛毅な人柄

  • 盧植、字は子幹、涿郡涿の人。身長8尺2寸、声は鐘のごとし。若くして鄭玄とともに馬融に師事し、古今の学に通じ、精緻な研究を好み章句の末節にこだわらなかった。
  • 融の外戚の豪家では宴席に女楽が並んだが、植は長年侍講しても一度も目を向けず、融はこれを敬した。学業を終えて辞去し、郷里で門を閉ざして教授した。剛毅で大節を持ち、常に世を救う志を懐き、辞賦を好まず一石の酒を飲めるほどであった。
  • 大将軍竇武が擁立され朝政を執った際、封爵を加えようとする議が起こったが、植は布人ながら書を献じて諫め、嫠婦が織物より周室の滅亡を憂えた故事や漆室の女の憂国の故事を引き、士は争友を貴び切磋を尊ぶとして、竇武に対し功に驕らず大賞を辞退し、諸侯・宗室の賢才を登用して「幹を強くし枝を弱くする」道を説いた。竇武は用いなかった。
  • 州郡から幾度も召されたが応じず、建寧年間にようやく博士に召された。熹平4年(175年)、九江の蛮が反すると、四府は植の文武の才を選んで九江太守に拝し、蛮寇を服させたのち病により辞した。
  • 尚書章句・三禮解詁を著した。太学に石経を建て五経の文字を正す事業が始まると、植は上書し、自ら馬融に古学を受け『礼記』の錯誤の多さを正したいと述べ、書生二名を伴い東観に赴いて研究に専心することを願い、古文(科斗文字)が実は正しく通俗の学に押されていることを説き、毛詩・左氏・周礼にはすでに伝記があるのに対し礼記にはないことを挙げ、春秋との整合のため博士を置き学官とすることを求めた。
  • 南夷反乱に際し、九江での恩信により廬江太守に拝され、清静を旨として大体を保つ政をなした。1年余りで再び議郎に召され、諫議大夫馬日磾、議郎蔡邕・楊彪・韓説らとともに東観で中書の五経記伝を校訂し漢記を補続した。侍中に遷り、光和元年(178年)の日食に際し封事を上げ、五行伝を引いて日食は君政の緩みによるものだとし、用良・原禁・禦癘・備寇・脩禮・遵堯・御下・散利の八事を陳べた。宋皇后の一族が無実のまま埋葬もされずにいることを収拾すべきこと、郡守刺史の頻繁な交代を改めるべきことなどを説いたが、帝は顧みなかった。
  • 中平元年(184年)、黄巾の乱が起こると、四府は植を挙げ北中郎将に拝し、烏桓中郎将宗員を副将として北軍五校の兵と諸郡兵を発して征討させた。連戦して張角の軍を破り万余人を斬獲し、角らは広宗に走って守った。植が包囲を築き雲梯を造って攻略寸前になったとき、帝の遣わした小黄門左豊が軍を視察に来た。賄賂を勧める者もあったが植は応じなかったため、豊は帝に「広宗の賊は容易に破れるのに盧中郎は塁を固めて天誅を待つのみ」と讒言し、帝は怒って植を檻車で召還、死一等を減じた。のちに車騎将軍皇甫嵩が黄巾を平定した際、植の用兵の方略を高く評価し、その年のうちに植は再び尚書となった。
  • 帝の崩後、大将軍何進が宦官誅殺を謀り、并州牧董卓を召そうとした際、植は董卓の凶悍さを見抜いて強く止めたが聞き入れられず、案の定卓は朝廷を虐げた。廃立を議する朝堂の場で百官の誰も異を唱えぬ中、植だけが抗議して従わず、卓は怒って会を解散し植を誅そうとしたが、蔡邕の取り成しと議郎彭伯の諫言(「盧尚書は海内の大儒、人望篤し、いま害すれば天下が震え怖れる」)により、官を免ぜられるにとどまった。
  • 植は老病を理由に帰郷を願い出て、追手を欺くため轘轅の道を通って逃れ、上谷に隠棲した。冀州牧袁紹に軍師として招かれた。初平3年(192年)に没し、末期に子の儉に薄葬(棺椁を用いず単帛のみ)を命じた。碑・誄・表・記など著作は全6篇。
  • 建安年間、曹操が北の栁城を討つ途上、涿郡を通過した際、「盧植は海内に名高く儒宗の模範、国の柱石であった」と称え、墓を修め子孫を厚遇するよう命じた。子の毓は幼くして学行で知られ、魏で侍中・吏部尚書に至った。
  • 史論:風霜が草木の性を分かつように、危乱の中でこそ貞良の節が現れるとし、賁育・荊軻のような勇者でも心を動かされずにいられない状況で、植が白刃を前にひるまず帝を追って河津まで赴いたのは、まさに君子の忠義が咄嗟の場でも変わらぬことの証だと評した。