後漢書卷九十三 李杜列傳第五十三 杜喬

出自と生涯

  • 杜喬、字は叔栄。河内郡林慮の人。若くして諸生となり孝廉に挙げられ、司徒楊震府を経て南郡太守・東海相・侍中を歴任。漢安元年、光禄大夫として兖州を巡察し、太山太守李固の政績を天下一と評価する一方、陳留太守梁譲(梁冀の叔父)・済陰太守氾宮・済北相崔瑗らの贓罪を摘発した。
  • 太子太傅・大司農を経て、梁冀子弟の無功の封を厳しく批判する上疏をしたが省みられなかった。种暠が摘発した永昌太守劉君世の金蛇献上事件で、梁冀への貸与を拒んだことで恨みを買い、梁冀の娘の喪に参列しなかったことでさらに疎まれた。
  • 建和元年、太尉となり、桓帝が梁冀の妹を皇后に迎える際の過度な礼制を旧典に基づき抑制し、梁冀の推薦する氾宮の尚書起用も贓罪を理由に拒んだ。李固の失脚後、群臣が萎縮する中、独り正色を保ち、海内の信望を集めた。
  • 宦官唐衡・左悺の讒言で桓帝に疑われ、清河王蒜擁立事件に連座を問われたが梁太后の判断で策免にとどまった。梁冀は使いを送って自尽を促したが応じず、遂に下獄・獄死させられた。妻子は故郡に帰され、遺骸は李固と共に城北に晒されたが、旧掾の楊匡が命を賭して十二日間遺体を守り、太后の許しで葬送された。

  • 仁義の実践は単に名を求め身を安んじるものではなく、去就の節を定め天下の風を正すためのものだと説き、義を重んじて生を捨てる場合と、生を全うすることで義を保つ場合の使い分けを論じる。上に暗愚な君主があっても臣節を尽くすことこそ「殺身成仁」であって「求生害仁」ではないと結び、順帝・桓帝の間、国統三度絶える中で李固が正義を貫いた姿勢を「確乎として拔くべからず」と称え、その臨終の書簡が示す社稷への思いを、胡広・趙戒の凡庸さと対比して高く評価する。

  • 「李杜司職、朋心合力。致主文宣、抗情伊稷。道亡時晦、終離罔極。燮同趙孤、世載弦直」(李固・杜喬は職を同じくし心を合わせて力を尽くした。主君を文帝・宣帝の治世に近づけようとし、伊尹・后稷に比すべき志を抱いた。しかし道は失われ時は暗く、ついに讒言の極みに遭った。李燮は趙氏の孤児(趙武)に似て一族の危難を逃れ、代々弦のごとき正直を伝えた、の意)。