後漢書卷九十三 李杜列傳第五十三 李固

出自と対策

  • 李固、字は子堅。漢中郡南鄭の人、司徒李郃の子。奇異な相貌(鼎角・匿犀・足履亀文)で知られ、若くして学を好み千里を遠しとせず師を尋ねた。太学で墳籍を究め、四方の志士が慕い来学し「再びの李公」と称された。孝廉・司空掾に招かれても応じなかった。
  • 陽嘉二年、地震・山崩・火災の異変を機に公卿が敦朴の士を推挙する制で対策を求められ、詳細な意見を上奏した。要旨は次の通り。
  • 王者は天地を父母とし、政の乖離が天変地異を招くと説き、当世の厳酷な統治が善行を歪め、質実の風を失わせていると批判。
  • 安帝が乳母王聖を封じた前例(宦官樊豊らの専横を招いた)を戒め、順帝の乳母宋娥への恩賞は財による褒賞にとどめ、封国は避けるべきと諫言。
  • 梁氏一族(外戚)の過度な栄達を古の永平・建初の制と比較し批判、外戚の権を国家に返すべきと説く。
  • 尚書を「天の北斗」に例え、内外の官(公卿尚書・常侍黄門)の連動性を説き、宦官の権重を削減し、常侍・小黄門を厳選すべきと提言。
  • 石室の図書を開いて広く儒者の意見を求め、忠臣を登用すべきと結ぶ。
  • 順帝はこの対策を多く採用し、阿母(宋娥)を出宮させた。李固は議郎となったが、阿母や宦官の恨みを買い、偽の飛章で誣告されたものの大司農黄尚や僕射黄瓊の助けで議郎に復した。

荊州刺史・太山太守としての善政

  • 広漢雒令から一旦致仕、大将軍梁商の従事中郎に招かれた際、梁商が外戚の身で柔和に過ぎ災異を正せないことを憂い、儀父・無駭の春秋の故事を引いて「義路を開き利門を閉じる」よう奏記し、外戚の専横の弊害と嗣子未立の不安を指摘、後宮に貧賤の女性からも子を求めるべきと提言したが用いられなかった。
  • 荊州刺史として、盗賊の魁党六百余人に恩赦と自首の機会を与えて帰順させ、南陽太守高賜らの贓罪を追及した際は梁冀への賄賂圧力にも屈せず追及を貫いた。太山太守に転じた際は、恩信をもって盗賊を招撫し半年で鎮定した。
  • 将作大匠として上疏し、魏文侯が卜子夏・田子方・段干木を師友としたことで諸国が敬服した故事を引き、賢人登用の重要性を説き、樊英・黄瓊・楊厚・賀純ら処士の再登用、周挙・杜喬ら忠良の重用を進言し、多くが実現した。八使の摘発した宦官親族への処罰の徹底、選挙制度の厳正化も求め、実現させた。

太尉としての権勢との対立

  • 冲帝即位に伴い太尉となり梁冀と録尚書事を分担。冲帝崩御に際し、秦の始皇帝の死を隠した趙高・胡亥の故事を引いて速やかな発喪を主張し実現させた。清河王蒜の擁立を梁冀に説いたが、中常侍曹騰らの入れ知恵で梁冀は蠡吾侯志(後の桓帝)を立てる決断をし、公卿会議で李固・杜喬だけが清河王蒜擁立を堅持したが押し切られた。
  • 甘陵の劉文・魏郡の劉鮪が清河王蒜擁立を謀った事件に連座させられ、梁冀に誣告されて下獄した。門生の郭亮・趙承ら数十人が命がけで冤罪を訴え、太后の裁断で一時赦されたが、市中に「万歳」の声が上がったことで梁冀は危機感を強め、再度誣告して誅殺した。享年五十四。
  • 臨終、胡広・趙戒に「梁氏の迷謬に公らが曲従し、吉を凶に、成事を敗に変えた。漢家の衰微はここから始まる」と痛烈な書簡を送った。二子の基・兹も獄死し、末子の燮のみ亡命して生き延びた。梁冀は李固の遺体を四衢に晒したが、弟子の郭亮・南陽の董班が命を賭して守り、後に太后の許しで葬送された。李固の門下弟子は「徳行」一篇を編んでその教えを伝えた。

李燮

  • 燮、字は徳公。姉の文姫の機転で幼くして酒家の傭人に身を変え難を逃れ、専心して経学を修めた。梁冀誅殺後の大赦で本姓を明かし、酒家の恩に報いようとしたが受け取られず帰郷、旧恩の王成の死には礼をもって葬った。
  • 潁川の荀爽・賈彪と均等に交わり公正を評価された。安平相として、賊に虜われた安平王続の復国に反対する上奏をしたが受け入れられず、続は後に不道の罪で誅された(李燮の見識の正しさが証された)。河南尹として、金銭による官職売買や西園への横税に反対する上書をし、桓帝を思いとどまらせた。
  • 梁冀に諂って主人を裏切った甄邵を、道で見つけて公然と辱め、その罪状を朝廷に上表して禁錮させた逸話が伝わる。在職二年で没し、その忠正を人々が惜しんだ。