後漢書卷八十八 虞傅蓋臧列傳第四十八 臧洪

臧洪

  • 臧洪、字は子源。広陵郡射陽の人。父の旻は幹事の才で知られ会稽の妖賊を討伐した功臣。洪は十五歳で童子郎を拝すほどの俊才で、孝廉から即丘長を経て、董卓の簒逆に際し太守張超に「郡境は全く吏民も豊かだ。桴鼓を動かせば二万の兵を得られる。国賊誅除の好機だ」と説き、兄の陳留太守張邈をも動かして反董卓連合の結成に尽力した。
  • 酸棗での会盟に際し、諸侯が互いに壇に登るのを譲り合う中、推されて血をすすり誓文を読み上げ、その慷慨たる弁舌は聞く者を奮い立たせた。しかし連合軍は遅疑して進まず、糧秣が尽きて瓦解した。
  • 公孫瓚と劉虞の不和の調停に赴く途上、袁紹に見出されて青州刺史となり、前刺史焦和の失政(虚誉のみで巫祝に頼り実効ある防備をしなかった弊)の後を継いで民心を安んじた。東郡太守として東武陽に拠った際、曹操に雍丘を包囲された張超の窮地を救おうとしたが、袁紹に援兵を拒まれ張超は自害、洪はこれを恨んで袁紹との関係を絶った。
  • 袁紹に包囲された洪は、旧知の陳琳からの降伏勧告の書簡に対し、長文の返書で「主人(袁紹)への恩義と張超への義理の板挟みに苦しみつつも、義を貫いて城を枕に死ぬ」との決意を述べた(張景明・呂布・劉子璜らの故事を引き、志を屈して生き延びることの恥を説く)。
  • 城内の食糧が尽き、鼠や革の紐まで食べ尽くした末、自らの愛妾を殺して兵に食べさせ、城が陥落するまで男女七、八十人が折り重なって死んだが離反する者はいなかった。捕らえられた洪は袁紹に「袁氏は四世五公の恩を受けながら、この機に乗じて忠良を殺し姦威を立てている」と面罵し、処刑された。同郷の陳容も洪を弁護して同時に処刑され、座にいた者は皆嘆息したという。

  • 臧洪の雍丘救援の憤りは壮とすべきものであったとしつつ、豪雄の去就は守義の心とは異なり、勢利によって離合するものであると評す。曹操・袁紹が和睦している間に外敵を頼みとして窮地を凌ごうとした忿悁の師(怒りによる戦い)は兵家の忌むところであり、申包胥が秦に哭泣して楚を救った故事のような「存荊」の実は伴わなかったと結ぶ。

  • 「先零擾疆、鄧崔棄涼。詡燮令圖、再全金方。蓋勳抗董、終然允剛。洪懐偏節、力屈志揚」(先零羌が国境を乱し、鄧騭・崔烈は涼州放棄を唱えた。虞詡・傅燮は優れた計略で涼州を二度救った。蓋勳は董卓に抗し、最後まで剛直を貫いた。臧洪は偏った節義を抱き、力尽きても志は揚がったままであった、の意)。