蓋勳
- 蓋勳、字は元固。敦煌郡広至の人。漢陽長史として、武威太守の不正を摘発しようとした際、私怨のあった蘇正和を陥れる誘いを「謀って良を殺すは忠にあらず、人の危うきに乗ずるは仁にあらず」と拒み、涼州刺史梁鵠を諫めて正和を救った。
- 阿陽での屯守中、金城太守陳懿殺害の報に接し、上官の刺史左昌の救援命令拒否に「昔、荘賈が期を後れ穣苴が剣を奮った故事」を引いて仲間を叱咤、包囲された左昌を救援した。太守宋梟の「孝経を写させて反乱を鎮めよう」という策には「学の乏しさが反乱の原因ではない」と諫めたが聞かれず、事は失敗に終わった。
- 護羌校尉夏育の救援戦で敗れ、三創を負いながらも「必ずここに屍を晒す」と動かず、羌の句就種滇吾に助けられ「盖長史は賢人、殺せば天に背く」と守られた逸話が伝わる。漢陽太守を代行し、飢饉の際に自ら糧を出して千余人を救った。
- 靈帝に「天下何ゆえに乱れるか」と問われ「幸臣の子弟が民を苦しめているからだ」と直言し宦官蹇碩の恨みを買った。宗正劉虞・佐軍校尉袁紹とともに宦官誅殺を謀ったが果たせず、京兆尹として長安令楊党(中常侍の子)の贓罪を摘発し貴戚の圧力にも屈しなかった。
- 董卓が少帝を廃し何太后を殺した際、書を送り「伊尹・霍光の権も寒心に値する。小醜(董卓)がこれを最後まで貫けようか」と諫めた。董卓政権下でも長揖のみで卑屈な礼を尽くさず、董卓が朱儁を怒鳴りつけた際にも武丁が傅説に諫言を求めた故事を引いて諫めた。剛直さを貫きながらも董卓の下で意を得ず、疽を病んで五十一歳で没した。遺言で董卓の弔賻を受けぬよう命じた。