後漢書卷八十五 章帝八王傳第四十五 河間孝王開

河間孝王開

  • 永元二年に封ぜられ楽成・勃海・涿郡の地を国とし、延平元年就国。法度を守り吏人に敬われた。永寧元年、鄧太后は開の子翼を平原王(懐王勝の祀)、徳を安平王(楽成王党の祀)とした。四十二年在位して薨じ、子の惠王政が嗣いだが不遜で法を守らなかった。
  • 河間相となった沈景は、王が礼服を着けず箕踞していたのを咎めて拝礼を拒み、王を恥じ入らせ、続いて姦人を捕らえ数十人を処罰、百余人の冤獄を晴らして政を改心させた。政の子貞王建、その子安王利、その子陔と続き、陔の四十一年、魏の受禅で崇徳侯とされた。
  • 別枝の蠡吾侯翼(開の子)は鄧太后に召され容儀を称えられ平原懐王の後を継いだが、太后崩御後、安帝の乳母王聖・宦官江京らの讒言で鄧騭兄弟とともに不軌を疑われ都郷侯に貶され河間に帰された。永建五年、父開の上書で蠡吾県が分与され、翼の子志が梁冀に擁立され桓帝となった。梁太后は河間孝王を「孝穆皇」、蠡吾先侯を「孝崇皇」と追尊した。
  • 桓帝の兄碩が平原王とされ博陵に留まって翼の祀を奉じたが酒に溺れ過失が多く、馬貴人(翼の夫人)が王家の事を代行した。建安十一年国は除かれた。
  • 別枝の觧瀆亭侯淑(河間孝王の子)の系統からは孫の宏(靈帝)が竇武に擁立され、竇太后は淑を「孝元皇」、その子長を「孝仁皇」と追尊した。以後、河間安王利の子康が濟南王として孝仁皇祀を奉じ、康の子贇は建安十二年に黄巾賊に殺され、子の開が嗣いで十三年、魏の受禅で崇徳侯とされた。