清河孝王慶
- 母は宋貴人。父楊は恭孝で知られ州郡の招きに応じなかった。姑が明徳馬皇后の外祖母にあたる縁で貴人姉妹は永平末に太子宮に入り寵愛を受けた。建初三年、貴人は慶を生み、翌年皇太子に立てられ、父楊は議郎に召された。
- 竇皇后が寵を得ると、慶を廃したい竇后とその養女比陽主が結託し、宋貴人が「病のため生莬(うさぎ)を求めた」書簡を捕らえて蠱道の呪詛と誣告、貴人母子は疎まれた。建初七年、慶は廃されて清河王とされ、代わって梁貴人の子肇(和帝)が皇太子に立てられた。宋貴人姉妹は暴室に送られ服毒自殺した。父楊も免官され、失意のうちに卒した。
- 慶は幼くとも嫌疑を避けるため宋氏について口にせず、章帝はこれを憐れみ太子と同等の待遇を与えた。和帝即位後も特に篤く遇された。永元四年、竇氏誅殺の際は和帝の密命を受け千乗王を通じ夜密かに動き、竇憲誅殺に貢献した。
- 慶は病がちで、廃黜された身として法を畏れ慎み、宋貴人の葬礼の不備を私室で偲び続け、竇太后崩御後にようやく墓参りが許された際「生きて奉養できなかったが、せめて死後の祭祀ができれば本望」と涙した。外祖母の療養のため宋氏一族の京師帰還も願い出て許された。
- 十五年、日食を理由に諸王の就国が命じられた際も詔で留められ、のち中傅衛訢の贓罪に連座を問われたが、和帝はその率直な対応を評価し訢の贓財を慶に与えた。和帝崩御に際し号泣して吐血し、発病した。
- 鄧太后は慶の国に中尉・内史を置くことを特別に許し、待遇を厚くした。就国の際、寡人(自分)を深宮に生まれ朝廷に育てられた身と称し、憂心焭焭として官属の匡助を求める令を発した。
- 慶の長子祐は嫡母耿姫とともに清河邸に留められ、殤帝崩御後に迎立されて安帝となった。慶自身は二十五年在位ののち帰国、その年病篤く「清河は卑湿な地、貴人(母宋氏)の墓の傍に葬られたい」と願う上書をして薨じた。享年二十九。司空が節を持して弔祭し、龍旂九旒・虎賁百人など東海恭王に准じる儀礼で葬られた。
- 慶の生母左姫も王に合葬された。子の愍王虎威が嗣いだが三年で薨じ子なく、鄧太后は楽安王寵の子延平を清河王(恭王)に立てた。太后崩御後、有司の上言により清河孝王は「孝徳皇」、母左氏は「孝徳后」、宋貴人は「敬隠后」と追尊され、甘陵に祀廟が整えられた。
- 耿貴人(延平の母)の兄耿寳は大将軍にまで至った(別伝あり)。延平(甘陵王)の後は蒜が嗣いだが、沖帝崩御時に嗣候補となりながら梁冀の意向で桓帝が擁立され、甘陵人劉文らによる蒜擁立の陰謀に連座して尉氏侯に貶され桂陽に徙され自殺、三年で国絶えた。梁太后は安平孝王の子経侯理を甘陵王とし孝徳皇の祀を奉じさせた(威王)。以後、貞王定・献王忠と続き、忠は黄巾の乱で一時捕らえられたが靈帝の詔で復国、その嗣子は黄巾に害され建安十一年に国は除かれた。