楊彪
- 彪、字は文先。家学を受け継ぎ、熹平中に議郎、京兆尹を経て侍中に遷った。光和中、黄門令王甫の門生が官財物を不正に得た事件を摘発し、司隷校尉楊球の奏でこれを誅殺させ、天下の溜飲を下げた。
- 潁川・南陽太守、大鴻臚・少府・太僕・衛尉を歴任し、中平六年司空、その冬に司徒。翌年、関東で反董卓の兵が挙がると董卓は長安遷都を諮り、盤庚の五遷の故事や光武帝の洛陽建都の由緒を引いて彪は強く反対したが、董卓は聞かず遷都を強行、彪は光禄大夫に落とされた。
- 献帝東遷(帰洛)後、興平元年に太尉・録尚書事となり、李傕・郭汜の乱では節を尽くして帝を衛り、建安元年の東都許遷都に随った。曹操が袁術と彪の婚姻関係を口実に大逆で下獄させようとした際、将作大匠孔融が「楊公は四世清徳、周書に父子兄弟罪相及ばずとある」と諫め、曹操も理を認めて釈放した。
- 建安十一年、恩沢による諸侯の封は皆奪われ、彪は漢祚の終わりを見て脚攣を称し十年出仕しなかった。子の修が曹操に殺された際、痩せ衰えた彪に曹操が理由を問うと「金日磾のような先見の明がなく、老牛が子牛を舐める愛情を捨てられなかった」と答え、曹操も心動かされたという。
- 魏の受禅後、曹丕は彪を太尉に任じようとしたが、彪は「漢の三公を務め世の傾乱を補えなかった老病の身で新朝を輔けられようか」と固辞し、光禄大夫・几杖を賜るにとどまった。八十四歳、黄初六年に家で没した。震から彪まで四世にわたり太尉を輩出し、その徳業は袁氏と並び東京(洛陽)の名族と称された。
楊脩(彪の子)
- 修、字は徳祖。学を好み俊才があり、丞相曹操の主簿として軍国の事務を統括した。漢中出兵時、曹操が「鶏肋」とだけ号令したのを、修は「食べても得るところがなく、捨てるには惜しい」の意と解し撤退を予見して周囲を驚かせた逸話が伝わる。同様に先を見通す才を度々発揮したため、曹操は次第に忌み、袁術の甥であることを理由に事に坐して修を殺した。享年四十五。賦・頌・碑・讃・詩・哀辞・表・記など十五篇を著した。
論
- 孔子の「危うくして持せず、顛れて扶けざれば、いずくんぞかの相を用いん」の言を引き、大任を負う者は虚しく冒してはならぬと説く。楊震が延光年間、上相として権枉に抗し公道を先んじたことは王臣の節を尽くしたものであり、四世にわたり徳を継いだのは「積善の家には必ず余慶あり」の実証であって、前漢の韋賢・平当父子の丞相継承もこれには及ばないと評する。
贊
- 「楊氏載徳、仍世柱國。震畏四知、秉去三惑。賜亦無諱、彪誠匪忒。脩雖木子、渝我淳則」(楊氏は徳を積み、代々国の柱石となった。震は「四知」を畏れ、秉は酒・色・財の三惑を退けた。賜もまた諱まず直言し、彪はまことに過つことがなかった。修は――「木子」(李、諧謔的な言い回し)とはいえ我が家の淳朴な法則を変えることになった、の意)。