後漢書卷八十三 周黄徐姜申屠列傳第四十三 申屠蟠

申屠蟠

  • 申屠蟠、字は子龍。陳留郡外黄の人。九歳で父を失い哀毀は礼を過ぎ、忌日には三日間食を断つほどであった。同郡の緱玉が父の仇討ちで夫の一族を殺し捕らえられた際、十五歳の蟠が県令梁配に「玉の節義は表彰されるべきで、清明の世にあって哀矜せずにいられようか」と諫言し、死一等を減じさせた。
  • 家が貧しく漆工として雇われていたが、郭林宗がその器量を見抜き、蔡邕も深く重んじ、州の招聘を辞退する文で「申屠蟠は玄妙の気を稟け、喪に礼を尽くし、行いは人に稀な美義がある。窮達に節を変えぬ」と評した。
  • 済陰の王子居と太学で同窓であり、子居が没した際、自ら輦車を推して郷里まで喪を送った。司隷従事に護送の符伝を渡されたが受け取らず地に投げて去った。太尉黄瓊が没した際、四方の名豪が六七千人集まる中で誰とも交わらず、南郡の一書生とだけ語り合い、「聘か徴に応じれば都で会おう」と言われると「拘われ、栄達を望む者と語り合ったとは思わなかった」と色をなして去った。
  • 戦国末の処士横議の禍(焚書坑儒)を引き、党錮の禍を予見して梁碭の間に隠れ、樹に寄せて家とし雇人同然の暮らしをして二年、果たして范滂ら数百人が党錮に遭う中、蟠だけは疑われず免れた。
  • 友人馮雍が獄に繋がれた際、豫州牧黄琬に助命を求めることを勧められたが「黄琬が私ゆえに罪を宥すはずがない」と動かず、結果として琬は自ら雍を赦した。大将軍何進が再三招聘した際も応じず、同郡の黄忠が書を送り「荀爽・鄭玄でさえ今は出仕している。高節に過ぎれば時に応じられぬ」と促したが、蟠は答えなかった。
  • 中平五年、荀爽・鄭玄・韓融・陳紀らとともに博士に徴されたが応じず、翌年、董卓の廃立の際にも公車で徴されたのは蟠一人だけ応じなかった。荀爽らは董卓に脅されて長安に赴き乱に巻き込まれたが、蟠だけは乱を全うし、七十四歳で家で没した。

  • 「琛寶可懐、貞期難對。道苟違運、理用同廢與。其遐棲豈若蒙穢。悽悽碩人、陵阿窮退。韜伏明姿、甘是堙曖」(貴重な宝は懐に抱けても、正しい時に出会うのは難しい。道が時運と違えば、理としては隠棲も出仕も等しく廃れる。遠く隠棲するより穢れた世に仕える方がよいとは限らない。悽然たる賢者は丘陵に退いて窮する。明敏の資を韜(つつ)み伏せ、甘んじて世に埋もれるのである、の意)。