後漢書卷八十一 李陳龎陳橋列傳第四十一 橋玄

橋玄

  • 橋玄、字は公祖。梁国睢陽の人。七世祖橋仁は戴徳に礼記章句を学び「橋君学」と称された。祖父基は広陵太守、父肅は東萊太守。玄は若くして県功曹となり、豫州刺史周景の巡行に際し陳相羊昌の罪を訴え、部陳従事として摘発、羊昌は檻車で徴された。
  • 孝廉に挙げられ洛陽左尉、のち河南尹梁不疑の辱めを恥じて官を棄てて帰郷、後に斉相・上谷太守・漢陽太守を歴任。漢陽太守の際、贓罪の上邽令皇甫禎を拷問死させ一境が震え、隠士姜岐を強引に招こうとして固辞され、士大夫の諫めで思いとどまった。
  • 度遼将軍として鮮卑・南匈奴・高句驪の寇鈔を破り、三年間辺境を鎮めた。靈帝初め河南尹・少府・大鴻臚・司空・司徒を歴任し、南陽太守陳球との旧怨がありながらも球を廷尉に推薦した。国力の限界を悟り病と称して自ら弾劾する上疏をし罷免、のち尚書令として蓋升の贓罪を弾劾したが帝は聞かず升を侍中に遷したため玄は病と称して免を求めた。光和元年太尉となったがまもなく病でまた退いた。
  • 光和末、玄の末子(十歳)が独り門前で遊んでいたところ賊三人に劫かされ財貨を求められた。司隷校尉陽球らが包囲した際、玄は子を犠牲にしてでも国賊を許すなと大声で命じ、子は死んだが賊も討たれた。玄は自ら詔を得て、以後劫質は財を贖わず皆殺す旨の法を定めさせた。以後、京師で劫質の犯罪は絶えたという。
  • 光和六年、七十五歳で没した。剛急な性格だが謙倹で士に下り、子弟親族に高官を求めなかった。没後、家に財産なく、殯すらままならなかったという。若年で無名だった曹操を玄は見出し「天下を安んずる者は君であろう」と評した。曹操はその知遇に感じ、後に玄の墓を通るたびに祭文を捧げて弔った(祭文の全文は本紀に付記される)。子の羽は任城相に至った。

  • 任棠・姜岐の高潔な節、龐参が賢者を求める礼を尽くしたゆえに民がその政を悦んだこと、橋玄が威をもって臣下に臨んだためかえって人情を失ったことを対比し、道の在り方の違いだと評する。段干木・泄柳の故事を引き、貴人にも屈する所があり、賎者にも伸ぶる所があると結ぶ。

  • 「李叟勤身、甘飢辭饋。禪為君隱、之死靡貳。龜習邉功、參起徒中。橋公識運、先覺時雄」(李恂は身を労し飢えを甘んじて贈り物を辞した。陳禪は君のため隠れ忍び、死しても二心なかった。陳龜は辺境の功に習熟し、龐参は徒刑の中から起用された。橋玄は時運を識り、当世の英雄をいち早く見抜いた、の意)。