陳龜
- 陳龜、字は叔珍。上党郡泫氏の人。代々辺将の家に生まれ弓馬に長じた。永建中に孝廉に挙げられ、五度遷って五原太守、永和五年には使匈奴中郎将となり、南匈奴左部の反乱の際、単于の統御失敗を咎めて自殺を迫り、事に坐して下獄・免官された。
- のち京兆尹となり豪族の民への侵奪を平理し郡内に喜ばれた。羌胡の寇乱に際し辺境事情に通じるとして度遼将軍に拝された。赴任に際しての上疏では、辺境の民の窮乏・戦死・破壊された郷里の惨状を切々と述べ、匈奴・烏桓校尉の刷新と将帥の忠誠不足を糾弾、并涼二州の租更の減免と刺史・太守以下の人事刷新を求めた。桓帝はこれに感じ幽并の刺史・郡太守以下を多く更迭し、并涼二州の一年分の租賦を免じた。
- 度遼将軍として鮮卑の侵入を退け経費を大幅に節減したが、大将軍梁冀と旧怨があり、龜が功名を独占しようとしたと讒言されて召還・辞職に至った。のち尚書に召還後、梁冀の暴虐を弾劾する上疏を奉ったが省みられず、必ず害されると自覚して七日絶食し没した。西域の胡夷や并涼の民庶がこぞって哀悼したという。