龎參
- 龎參、字は仲達。河南緱氏の人。初め郡吏として知られなかったが、河南尹龎奮に見出されて孝廉に挙げられ左校令となった後、法に坐して若盧獄に輸作された。
- 永初元年、涼州の先零羌が反乱し車騎将軍鄧騭が討伐に赴いた際、参は獄中から子の俊に上書させ、遠征による疲弊を説き、まず兵を養い休ませ疲れを待つべきと献策した。御史中丞樊凖もこれに応じて参を推薦し、鄧太后はこれを容れて参を徒中から抜擢し謁者・西督三輔諸軍屯とした。
- 永初四年、羌寇が盛んになり兵費が嵩む中、参は鄧騭への上申(奏記)で、辺境への転運が三輔を疲弊させる悪循環を説き、辺郡の不毛な地への出兵を控え三輔の民生を優先すべきと論じたが、多数の賛同を得られず採用されなかった。
- 漢陽太守となった際、隠士任棠が薤一本と水一盂を戸前に置いて出迎えた無言の諫(清廉たれ・豪族を挫け・孤児寡婦を憐れめの意)を悟り、抑強助弱の善政を行った。元初元年、護羌校尉に遷り羌の懐柔に成功、令居を回復した。
- のち先零羌の追討で行征西将軍司馬鈞との会期に遅れて敗れ、詐病の罪で下獄したが、校書郎中馬融の上書(荀林父・孟明視の故事を引き復権を説く)により赦され、遼東太守・度遼将軍・大鴻臚を歴任、順帝の代に太尉・録尚書事となった。
- 三公の中で忠直をもって知られたが左右の讒言に遭い、被弾劾で会に出られぬ間、上計掾叚恭が忠節を訟えた上疏を奉ったが、参の夫人の疾により前妻の子が井戸に身を投げて死ぬ事件が起き、洛陽令祝良との不和もあって弾劾され罷免された(良もまた不正に問われ収監されたが民衆の請願で赦された)。陽嘉四年再び太尉となり、永和元年病により罷め、家で没した。