後漢書卷八十 孝明八王列傳第四十 濟陰悼王長
済陰悼王長
- 永平十五年に封ぜられ、建初四年に東郡・陳留の県が益された。十三年在位して京師で薨じ、子なく国は除かれた。
論
- 晏子は「人生は厚くとも用は利なるべきで、これを正すために徳をもって幅(限度)を設ける」と説いた。布帛に幅があってこそ度が定まるように、人情も節度によって徳が正されるという意である。
- 明帝は諸子への封国の租を毎年二千万を超えぬよう定め、馬皇后が加増を求めても許さなかった。倹約に篤いだけでなく、驕貴に飽きがなく嗜欲が窮まりないことを知っていたからであり、そのため後漢の諸侯には禍敗に至る者が少なかったと評する。
贊
- 「孝明傳𦙍、維城八國。陳敬嚴重、彭城厚徳。下邳嬰痾、梁節邪惑。三藩夙齡、黨惟荒忒」(孝明帝の子孫は藩屏として八国に封ぜられた。陳敬王は重厚、彭城王は厚徳、下邳王は病がち、梁節王は邪説に惑わされた。千乗・淮陽・済陰の三藩は早世し、楽成王党はことに乱行が甚だしかった、の意)。