後漢書卷八十 孝明八王列傳第四十 樂成靖王黨

樂成靖王黨

  • 永平九年に重熹王の号を賜り、十五年に楽成王に封ぜられた。党は聡慧で史書を能くし、粛宗(章帝)と同年で親密であった。建初四年、清河・勃海・涿郡の八県が楽成国に益された。
  • 就国後、党は急刻で法度を守らず、掖庭の技人哀置を無官のまま妻とし、これを知られることを恐れて内侍三人を縊殺した。さらに中山簡王の傅婢李羽生を小妻とし、永元七年国相の奏により東光・条の二県を削られた。二十五年在位して薨じ、子の哀王崇が嗣いだが二月で薨じ子なく国絶。
  • 翌年、崇の兄の脩侯廵が楽成王(釐王)に立てられ十五年で薨じ、子の隠王賓が嗣ぎ八年で薨じ子なく絶えた。翌年、済北恵王の子萇が楽成王とされたが、驕淫不法の罪により安帝の詔で臨湖侯に貶せられた。延光元年、河間孝王の子得が靖王の後を嗣ぎ、楽成の名を廃して安平と改められ、安平孝王とされた。三十年在位して薨じ、子の続が嗣いだが、中平元年黄巾の乱で広宗に囚われ、乱平定後に国に復したがその秋、不道の罪で誅され、三十四年で国は除かれた。