陳敬王羨
- 永平三年、広平王に封じられた。建初三年、鉅鹿王恭・楽成王党とともに就国を命じられたが、肅宗(章帝)が兄弟の情愛から留めた。翌年、輿地図をもとに諸国の戸口・租入を均等(各八千万)とした。羨は経書に博渉し、白虎殿で諸儒と講論した。
- 建初七年、広平が北辺で費用がかさむため西平王に徙され、汝南八県が国に分けられた。章帝崩御に際し遺詔で陳王に徙封され、淮陽郡を食んだ。三十七年在位して薨じ、子の思王鈞が嗣いだ。
- 鈞は不法を重ね、天子の大射礼を僭したり、隠賊で国相・二千石を陥れたりし、永元十一年には客の隗久に敬王夫人李儀らを殺させ、発覚を恐れて久を殺させようとして事が露見、西華・項・新陽の三県を削られた。のちにも掖庭の出女李嬈を小妻としたことで圉・宜禄・扶溝の三県を削られた。鈞は二十一年在位して薨じ、子の懐王竦が嗣いだが二年で薨じ子なく国は絶えた。
- 永寧元年、敬王の子安寿亭侯崇が陳王(頃王)に立てられ、五年で薨じ子の孝王承が嗣ぎ、承の薨後は子の愍王寵が嗣いだ。熹平二年、国相師遷が前相魏愔と寵が天神を共祭し不軌を希ったと訴え、案験の結果、愔・遷は誅死したが寵は赦され不問となった。寵は弩の名手であった。
- 中平年間、黄巾の乱に郡県が城を棄てるなか、寵は数千の彊弩を擁して都亭に出軍し、陳のみが独り無事で百姓十余万が帰属した。献帝初め、寵は輔漢大将軍を自称し陽夏に屯した。国相の会稽の駱俊は資産を傾けて飢饉の民を救ったが、袁術が糧を求めて拒まれ、怒って刺客を送り俊と寵を殺させ、陳は破敗した。当時、諸国は租禄を失い虜奪に遭い、夫人・姫妾の多くが丹陵の兵と烏桓の略取に遭ったという。