後漢書卷七十九 王充王符仲長統列傳第三十九 仲長統

出自と生涯

  • 仲長統、字は公理。山陽郡高平の人。若くして学を好み、書記に広く通じ文才があった。二十余歳で青・徐・并・冀を遊学し、交友の多くが異才ぶりに驚いた。
  • 并州刺史高幹(袁紹の甥)は名士を招いていたが、仲長統は「君に雄志はあっても雄才はなく、士を好んでも人を択べない」と忠告した。高幹は聞き入れず、のちに叛乱を起こして敗死し、并冀の士は仲長統の知人を見る目を評価した。
  • 性格は俶儻(大胆で拘らない)で直言をはばからず、小節にこだわらなかったため「狂生」と呼ばれた。仕官を求めず、良田広宅・山水に囲まれた閑居の理想を論じ、老子の玄虚、彈琴・詠詩の楽しみを述べる文を作った。
  • 詩二篇を作って志を示し(「飛鳥は跡を遺し、蝉は殻を蛻ぐ」云々、超俗の境地を歌う)、のち尚書令荀彧に認められ尚書郎となり、丞相曹操の軍事に参与した。古今の時俗の行事を論じるたびに慷慨し、『昌言』三十四篇・十余万言を著した。献帝の禅譲の年に四十一歳で没した。友人の繆襲は仲長統の才を董仲舒・賈誼・劉向・揚雄に継ぐものと称した。以下、『昌言』のうち政治に益のある部分を抄する。

理亂篇

  • 天命を承ける豪傑が現れる乱世には、群雄が天威を偽り称して割拠し才智・勇力を競うが、知力を尽くした者は窮し、力を尽くした者は敗れ、やがて羈頸されて臣従するに至ると論じる。
  • 継体(世襲)の時代になると民心は定まり、天下は君主一人に頼って生育し、豪傑の心も士民の志も落ち着くが、暗愚な後嗣の君主は天下に逆らう者がないと過信し、私欲を恣にして君臣ともに淫を宣べ、婦人・田猟に耽り庶政を荒廃させると批判。
  • 佞人・后妃の一族に信任が集まり、天下の膏血を絞り取るうちに怨毒が積もり乱が並び起こって王朝は瓦解する。存亡の交替は「政の乱は周りて復す」天道の常であると論じる。
  • 漢興以来、財力によって君長のごとく振る舞う者が世に絶えず、清潔の士はかえって苦しむのみで風俗を益さない。豪族の邸宅は棟を連ね田は野に満ち、奴婢は千群、船車の商いは四方に及び、賓客・妓楽が贅を尽くす様を描き、これらが乱世を長引かせ君子を困窮させる元だと論じる。
  • 秦の始皇帝が兼併の勢いに乗じ天下を屠り、その報いとして楚漢の兵禍を招いたこと、漢が二百年で王莽の乱に遭い、その被害が秦項の乱の倍に及んだこと、さらに後漢末の黄巾・董卓の禍が新莽の時より甚だしいことを述べ、五百年に足らぬ間に三度の大乱(秦末・王莽・献帝時)が起きたと嘆く。

損益篇

  • 時に便利な制度は改めてよく、実効のない古法にこだわる必要はないとし、漢初の諸侯王への分封が驕逸自恣を招き簒叛・暴虐の害を生んだ経緯を述べ、その後爵を降し土を削って禄食のみとした変遷は当を得た変革だったと評価する。
  • 井田の廃止によって豪人が貨殖し、田畝は方国に連なり、無位無官の身で千室の邑に匹敵する栄華を得る者が現れ、弱者は死んでも冤を訴えられない現状を批判し、井田制の復活が有益な「変じて敗るるも復すべきもの」だと説く。
  • 肉刑の廃止によって死刑と髠鉗・鞭笞の間の軽重の段差がなくなり、軽罪でも死刑に至りやすくなったことを問題視し、殺すに値しない罪(鶏犬の窃盗・男女の姦通など)に中刑を設けるべきだと論じ、周礼の三典・呂刑の祥刑を継ぐことを説く。
  • 一伍の長・一国の君・天下の王はそれぞれの才に応じて上に立つという理を説き、遠地の県を境界の広さで再編し、版籍を明らかにし什伍を連帯させ、兼併を限り刑を定め、農桑を興し末業を去り教学を敦くし才芸を核べ武備を修めるなど十六の政務を列挙する。
  • 戸数千万のうち丁壮を推算し、什長・佐史・政理の位にふさわしい人材の数を試算し、天下に人材は不足しないと説く。無為の政(老子の説)を批判し、三代の肉刑・井田を摹すべきで、法制は君子が用いれば化に至り、小人が用いれば乱に至ると論じる。
  • 官の俸禄を厚くすれば貪汚を絶てるとし、天災の際に倉を開いて貸与することを仁と説き、拘絜(隠逸に固執すること)で才能を失ったり、清廉のみで士を追放したりすることを戒める。
  • 農地一畝三斛の収穫のうち一斗を租とする程度の軽税を提案し、辺境有事の際にも財源が枯渇して兵士が飢え民が餓死する現状を憂え、二十税一(貊の制)にすら及ばない過酷な税制を批判する。

法誡篇

  • 周礼の六典で冢宰が王を輔けたこと、春秋・戦国では諸侯が一卿に政を委ねたこと、秦以来丞相・御史大夫の制が続いたことを述べ、政を一人に任せれば専らとなり和諧するが、数人に任せれば相倚って違戻すると論じる。
  • 光武帝が外戚(王莽)の簒奪を懲りて三公の実権を奪い尚書に移したこと、その結果、三公は責任のみ負わされ実権のない員数官となり、政の乱れはかえって外戚・宦官の専横によって生じたと批判する。
  • 文帝が鄧通を寵愛しつつも丞相申屠嘉の威厳を尊重した故事を引き、当世の外戚・宦官が意のままにならぬと人を陥れる惨状と対比する。
  • 前漢の外戚二十家のうち族を全うしたのはわずか四人であったと数え、竇氏が謙譲によって長く栄えた例を引き、丞相を一人に立てて総攬させるか、三公に分任させて責任を明確にすべきだと説く。

  • 百家の政論は世の運・見解の偏りによって是非が紛然と分かれるとしつつ、聖人が世を治める道は時によって損益が異なり、才が分に応じなければ一毫の差が千里の誤りになると論じる。
  • 玄聖(聖人)が世を治める大道は天と同じく不変だが、文質・損益の運用は時代ごとに異なり、黄屋を戴き絺衣を服する(質素と華美)の違いはあっても化に至る結果は一つだと説く。
  • 魏の葛屨・曹の蜉蝣の詩を引いて奢儉の過不足を戒め、鄭の刑書鋳造、漢の約法三章、子産の寛猛、蕭何・曹参の画一の法などを挙げ、政の緩急は時に応じるべきで、一隅の説に固執すべきでないと結ぶ。

  • 「管視好偏 羣言難一 救朴雖文 矯遲必疾 舉端自理 滯隅則失 詳觀時蠧 成昭政術」(視野が偏れば衆論は一致せず、質朴を文をもって救うにも矯め過ぎれば害を招く。要を挙げれば自ずと治まり、一隅に滞れば失う。時弊を詳らかに観てこそ政の要が明らかになる)と全篇を総括する。