後漢書卷七十八 楊李翟應霍爰徐列傳第三十八 楊終

楊終

  • 楊終、字は子山、蜀郡成都の人。十三歳で郡の小吏となり、太守にその才を見出され京師で春秋を学んだ。顕宗(明帝)の代、蘭台に召され校書郎を拝命。建初元年、大旱で穀物価格が高騰した際、広陵・楚・淮陽・済南の獄で流罪となった万余人の恨みと、西域への遠征屯戍の負担を憂え、上疏した。「善は子孫に及び悪は本人限りというのが百王の常典、秦は酷烈な連座制で天心に背いたが、高祖は三章の法で緩め、文帝は収拏の連座律を除いた。永平以来の大獄で拷問により冤罪の徙刑が続き、北の匈奴征討・西の三十六国開拓で民は疲弊している」と説き、伊吾・楼蘭・車師戊己校尉の遠征を戒めた。
  • 司空第五倫も同調したが、太尉牟融・司徒鮑昱・校書郎班固らは「先帝の定めた事業を安易に変えるべきでない」と反対した。楊終は重ねて上書し、秦の長城建設や元帝の珠崖放棄・光武帝の西域断絶の先例、『春秋』の「魯文公が父祖の作った泉台を毀した」故事や「襄公の作った三軍を昭公が舎めた」故事を引き、時宜に応じた変更は非難されないと説き、粛宗(章帝)はこれに従い伊吾・楼蘭の屯を撤収した。
  • また、宣帝の石渠閣論議に倣い、章句の乱れを正すべく諸儒を集めて経義を論定すべきと提言し、白虎観会議の開催につながった。楊終自身は事に坐して繋獄されたが、博士趙博・校書郎班固・賈逵らが「春秋学に詳しい」として推挙し、白虎観の議に参与した。のち『太史公書(史記)』を十余万言に刪定する詔を受けた。
  • 太后の兄衛尉馬廖が子弟を訓育しないことを憂え、書を送って「堯舜の民は皆封ぜられ得るが桀紂の民は皆誅され得る、上に立つ者の堤防か驕奢かによる」と説き、太子傅相の古制や漢の諸侯王の失敗例を引き、馬廖の子弟(黄門郎)に「臨深履薄」の戒めを説いたが容れられなかった。子の馬豫はのち誹謗の罪で国に帰された。
  • 兄の楊鳳が太守廉範の弾劾に連座した際、楊終は弁護に努めたが自らも北地に流された。帝の東巡狩の際、鳳凰・黄龍の瑞祥を頌える十五章を上呈し赦されて故郡に戻り、『春秋外伝』十二篇を著し章句を十五万言に改定した。永元十二年、郎中に召されたが病没した。