後漢書卷七十七 班梁列傳第三十七 班超

班超、字は仲升、扶風平陵の人、班彪の末子で班固の弟。「投筆従戎」の故事で知られ、鄯善・于寘・疏勒を平定して西域経営に乗り出し、莎車・龜茲・焉耆らを次々と服属させ、都護として三十一年にわたり西域を治めて定遠侯に封じられた。永元十四年、七十一歳で洛陽に没した。子の班勇も西域長史として父の事業を継いだ。

年表(19件)
  • 永平五年兄班固が校書郎に召され、共に洛陽に出て代書で生計を立てる中「筆を投げ捨てる」故事を残す
  • 永平十六年竇固の匈奴出撃に仮司馬として従い伊吾で戦功を挙げ、従事郭恂と共に西域へ使いした
  • 永平十八年明帝崩御に乗じ焉耆が都護陳睦を殺害、孤立するも疏勒に留まり槃橐城を守った
  • 建初三年姑墨石城を破り、西域平定の好機として増兵を上疏し容れられた
  • 建初五年莎車の龜茲降伏と疏勒都尉番辰の反乱を、徐幹の援軍を得て撃破した
  • 建初八年将兵長史に任じられ烏孫への使者を送るが、衛候李邑の讒言を受けた
  • 建初十四年莎車再征に来た龜茲の援軍五万を策略で破り、莎車を降した
  • 永元二年月氏副王謝の七万の軍を持久戦で退け降伏させた
  • 翌年龜茲・姑墨・温宿が降り、西域都護となった
  • 永元六年焉耆を討伐し、西域五十余国が悉く内属、定遠侯に封じられた
  • 永元十二年老いを理由に帰国を願う上疏をした
  • 永元十四年洛陽に帰還し射声校尉を拝命したが、まもなく七十一歳で没した
  • 永建五年孫の班始が公主殺害の罪で腰斬に処された
  • 永初元年西域反乱に際し軍司馬として兄班雄と共に敦煌へ赴いた
  • 元初六年曹宗の西域再進出論に反対する議を上げた
  • 延光二年西域長史として五百人を率い柳中に出屯した
  • 延光四年車師後部王軍就を大破し索班の恥を雪いだ
  • 永建元年車師六国を悉く平定し、匈奴の跡を絶った
  • 永建二年焉耆攻めで「後期」の罪を問われ免官された

投筆従戎

  • 班超、字は仲升、扶風平陵の人、徐令班彪の末子。志高く細事に拘らず、内には孝謹で、労苦を厭わず、弁舌に長け書伝を渉猟した。永平五年、兄班固が校書郎に召された際、母と共に洛陽に至り貧しさから官の代書で生計を立てたが、あるとき筆を投げ捨てて「大丈夫たるもの傅介子・張騫のように異域で功を立て封侯を得るべきだ、いつまでも筆硯の間で過ごせようか」と嘆き、周囲に笑われたが「小人に壮士の志が分かろうか」と答えた。相人に「布衣ながら万里の外で封侯の相がある」と予言されたという。
  • 顕宗(明帝)が兄班固に弟の消息を問うた際、代筆で母を養っていると知り、班超を蘭台令史に任じたが事に坐して免ぜられた。永平十六年、奉車都尉竇固の匈奴出撃に仮司馬として従い、伊吾で戦功を挙げ、竇固の推薦で従事郭恂と共に西域に使いした。

鄯善・于寘・疏勒の平定

  • 鄯善に至った当初、王広は手厚く迎えたが急に疎遠になった。班超は「北匈奴の使者が来て王が去就に迷っているのだ」と見抜き、侍胡を騙して真相を確かめると案の定であった。班超は配下の吏士三十六人を集め酒宴で激励し、「虎穴に入らずんば虎子を得ず、今夜火攻めで匈奴の使者を討つ」と決断、従事に相談すれば計画が漏れると押し切り、夜襲を敢行して匈奴使者以下を皆殺しにした(「不入虎穴、不得虎子」の故事)。翌日、この事実に恐れをなした郭恂に功を独占しない意を示し、鄯善王広に使者の首を見せて服従させ、子を人質に取った。竇固はこれを喜び、帝は班超の節を壮とし軍司馬に任じ、さらなる西域派遣を命じた。
  • 于寘では王広徳が匈奴の威を恐れ、巫の「漢使の騧馬を求めよ」との神託を口実に馬を要求したが、班超は馬を取りに来た巫を斬って送り返し、広徳を服従させた。匈奴の勢威を恃み疏勒を攻め王を殺して龜茲人兠題を疏勒王に立てていた龜茲に対し、班超は先遣の吏田慮に兠題を捕らえさせ、自ら赴いて疏勒の元王の甥忠を新王に立て、国人を慰撫した。兠題は助命され釈放されたが、これにより疏勒は龜茲と結怨した。

疏勒孤立から召還騒動

  • 永平十八年、明帝崩御に乗じ焉耆が都護陳睦を殺し、班超は孤立無援のまま龜茲・姑墨の攻撃を受けながら疏勒の忠と共に槃橐城を守った。粛宗(章帝)即位初め、陳睦の惨事を受けて班超の危険を案じ召還の詔が出たが、疏勒都尉黎弇は「漢使が去れば我らは龜茲に滅ぼされる」と自刎し、于寘の王侯以下も班超の馬にすがって引き留めた。班超は于寘での引き留めを恐れつつ本志を貫くべく疏勒に戻り、龜茲に降っていた疏勒両城を平定、尉頭を破って疏勒を再び安んじた。

西域平定の上疏

  • 建初三年、疏勒・康居・于寘・拘弥の軍一万を率い姑墨石城を破り、西域平定の好機として増兵を上疏した。「先帝が西域を開いた志を継ぎ、拘弥・莎車・疏勒・月氏・烏孫・康居が漢に帰服を願っている、力を合わせて龜茲を滅ぼせば西域の統一は成る」とし、谷吉・張騫の故事になぞらえ、龜茲の侍子白霸を王に立てて数百の兵で送り込めば「夷を以て夷を攻める」戦略で成功すると説き、莎車・疏勒の肥沃な土地から兵糧を自弁できることも述べた。帝はこれを容れ、平陵の徐幹を仮司馬として増援に送った。

莎車・車師・康居との攻防

  • 建初五年、莎車が漢兵不出と見て龜茲に降り、疏勒都尉番辰も反したが、徐幹の到着を得て番辰を撃破した。烏孫の強大な兵力(十万の弓兵)を活用すべく上言し、招撫の使者派遣が認められた。建初八年、将兵長史に任じられ、軍司馬徐幹、衛候李邑を伴い烏孫への使者を送ったが、李邑は龜茲による疏勒攻撃に恐れをなし前進せず、班超が愛妻愛子に溺れ国事を顧みないと讒言した。班超は「曾参ならぬ身に三度の讒言があった」と嘆き妻を離縁したが、帝は李邑を叱責し班超に処置を一任、班超は器量の大きさを示すため李邑をそのまま送り返した。
  • のち莎車が疏勒王忠を利で誘って離反させたため、班超は疏勒の府丞成大を新王に立てて忠を討ち、康居の援軍を月氏との縁を通じて撤退させた。三年後、忠は康居の兵を借り損中に拠って龜茲と結び偽って降伏を申し出たが、班超は内心その姦計を見抜きつつ表向き許し、忠が油断して訪れたところを縛って斬り、その衆七百余人を討って南道を通じさせた。
  • 建初十四年(永元前)、莎車再征に際し龜茲王が温宿・姑墨・尉頭の兵五万で救援に来ると、班超は策を用いて于寘軍を東へ、自軍を西へ偽装退却させ、敵の分散を誘って夜襲し、莎車の陣を撃破して五千余級を斬り、莎車は降伏、龜茲らは退散した。以後、西域に威震した。
  • 月氏が匈奴とともに車師攻撃で功をあげながら公主を求めて拒絶され怨みを抱き、永元二年、副王謝が七万の兵で攻めてきた際、班超は「数千里を越えてきた兵に補給の余裕はない、堅守すればやがて自滅する」と説き、龜茲への救援要請の使者を伏兵で討ち取ってその首を見せると、謝は驚いて降伏を請い、班超はこれを許した。月氏は以後、毎年貢献するようになった。

西域都護

  • 翌年、龜茲・姑墨・温宿が降り、班超は都護、徐幹は長史となり、白霸を龜茲王として送り込み、尤利多を廃して立てた。西域で焉耆・危須・尉犁のみが陳睦殺害以来なお二心を抱いていた。永元六年秋、龜茲・鄯善など八国と吏士・商人合わせて七万余を発し焉耆を討伐。焉耆王広は葦橋を絶って抵抗しようとしたが、班超は別路から渡河し、内応者を得て焉耆王広・尉犁王汎・北鞬支ら三十人を陳睦の旧城で斬り、五千余級を討ち、以後新たに元孟を焉耆王に立てて西域五十余国が悉く内属した。
  • 詔書は班超の功績を称え、明帝の代からの西域経営の系譜(右地の破却、白山攻略、都護設置)を振り返り、班超が二十二年にわたり西域を安んじた功を「兵を煩わさず遠夷の和を得た」と称え、定遠侯・食邑千戸に封じた。

帰国と最期

  • 永元十二年、老いを思い帰国を願う上疏を上げた。「太公は斉に五世封ぜられても遺骸は周に葬られた、狐死して丘に首を正す、代の馬は北風を慕う――まして絶域にある小臣に望郷の思いがないはずがない」とし、蛮夷の風習が老いを侮ることや、蘇武が十九年の抑留を経験した故事も引き、「もはや酒泉郡までの帰還は望まず、ただ生きて玉門関を入りたい」と切々と訴え、子の班勇に献上物を持たせ先に帰国させた。
  • 妹の班昭(曹寿の妻)も上書し、班超が三十年余り沙漠で身を捧げてきたことを述べ、「今や七十歳、頭髪は白く手足は不自由、蛮夷の風習は老いを侮る、班超が急死すれば長年の功が仇となり辺境の禍を招きかねない」と兄の帰還を訴えた。帝は感動し班超を召還した。永元十四年八月、洛陽に至り射声校尉を拝命したが、以前からの胸脇の病が悪化し、同年九月、七十一歳で没した。朝廷はこれを深く悼み、厚く弔祭した。西域在任三十一年。子の班雄が跡を継いだ。

班超没後の西域統治

  • 班超召還の際、後任の都護には任尚が就いたが、班超に治世の秘訣を尋ねると「塞外の吏士は罪により配された者ばかりで、蛮夷は鳥獣の心を持ち養い難く敗れやすい、君は性急で水清ければ大魚棲まずの理、些細な過ちを大目に見て大綱のみを掌握せよ」と忠告した。任尚はこれを平凡と侮ったが、数年後、西域は反乱し任尚は罪により召還され、班超の警告が的中したことが証明された。
  • 班超の三子のうち長子班雄は屯騎校尉から京兆尹に至ったが、その子班始が順帝の姑陰城公主を妻としながら公主の淫乱に耐えかね殺害し、永建五年、腰斬に処された。

班勇(班超の末子)

  • 班勇、字は宜僚。父の風を受け継いだ。永初元年、西域反乱に際し軍司馬として兄班雄と共に敦煌に赴き都護を迎え、以後十余年、漢は西域に吏を置かなかった。元初六年、敦煌太守曹宗が索班を伊吾に派遣したが北匈奴・車師後部に討たれる事件が起き、曹宗は報復のため西域再進出を求めた。鄧太后が朝議を開き、多くの公卿は玉門関を閉ざして西域を放棄すべきと主張したが、班勇は反論の議を上げた。
  • 「武帝が西域を開いたのは匈奴の右腕を断つ策であり、光武帝以来の経緯を経て永元に西域は内属した。近年の羌乱で西域が絶えたのは牧養の失宜による、曹宗の報復論は時宜を得ていない、要功は万に一つも成らず戦禍を招く」と説き、敦煌の営兵三百を復して西域副校尉を置き、さらに西域長史に五百人を率いさせ楼蘭に屯田させるべきだと提案した。
  • 尚書の質問に対し、班勇は永平末の先例(中郎将・副校尉設置による夷心の帰服)を挙げ、長楽衛尉鐔顕・廷尉綦母参・司隷校尉崔拠らの「西域放棄は費用対効果が悪い」との反論に対し、「西域を通じさせれば虜の勢は弱まる、それこそ府蔵を奪い右腕を断つ策」と再反論、太尉属毛軫の懸念(西域諸国の際限ない要求)にも「西域からの求めは食糧程度に過ぎない、拒絶して匈奴に帰属させれば逆に千億の費用がかかる」と説き、この議論の末、班勇の案が採用され、敦煌の営兵三百・西域副校尉が復されたが、屯田までは実施されなかった。
  • 延光二年、西域長史として五百人を率い柳中に出屯。翌年、鄯善が帰附し、龜茲王白英も姑墨・温宿と共に自縛して降った。延光四年秋、車師後部王軍就を大破し、匈奴の持節使者を斬って索班の恥を雪いだ。永建元年、車師六国を悉く平定、匈奴呼衍王も二万余人が降伏、北単于自らの侵攻も撃退し、車師から匈奴の跡を絶った。焉耆王元孟のみがなお服さず、永建二年、敦煌太守張朗の別動隊と共に攻めた際、張朗が功を焦って先に焉耆に入り降伏を受けたため、班勇は「後期」(期日遅れ)の罪を問われ免官された。のち家で没した。