後漢書卷七十六 郭陳列傳第三十六 陳寵

陳寵、字は昭公、沛国洨の人。曾祖父陳咸以来、法律を家学とする一族に生まれ、寛平な法解釈を重んじる廷尉として章帝・和帝に仕え、司空にまで至った。子の陳忠も家学を継ぎ、寛詳な刑の運用と尚書令などの要職で父の風を承けた。

年表(12件)
  • 粛宗(章帝)初め尚書となり、厳切な政風を改め寛をもって済すべきと上疏し容れられた
  • 元和二年旱魃を理由とする改暦の議に対し暦法を精緻に論じて反対し、改暦を退けた
  • 章帝崩御後竇憲に恨まれ太山太守、のち広漢太守として外に出された
  • 竇氏敗滅後和帝により大司農に抜擢された
  • 永元六年郭躬に代わり廷尉となり、律令の甫刑超過条項の削減を上奏した
  • 永元十六年徐防に代わり司空となり、在位三年で薨去した
  • 永初中司徒府に辟され三遷して廷尉正となり、司徒劉愷の推薦で尚書に抜擢された
  • 鄧太后崩御後安帝親政の初めに賢才登用を進言した
  • 元初三年三年喪の服喪制度復活に際し孝宣帝の旧令に倣うべきと上言し容れられた
  • 建光中三年喪制度の再廃止を議する尚書らに反論し、意見が令に定着した
  • 延光三年司隷校尉として宦官・外戚の賓客を厳しく糾した
  • 延光四年江夏太守に出されたが再び尚書令に留められ、まもなく病没した

陳寵

  • 陳寵、字は昭公、沛国洨の人。曾祖父の陳咸は成帝・哀帝の頃、律令に通じて尚書となったが、王莽が平帝を専権し何武・鮑宣らを誅した際、「易に言う『君子は幾を見て作す』、私は去るべき時だ」と辞職。王莽簒位後の召しにも病と称し、三子が皆官職にあったのを全て辞めさせ、一族で閉門し、王莽の暦でなく漢の祖臘(先祖祭祀の日)を守り続けた。律令の書は壁に隠し、子孫に「法を議するには軽きに依り、たとえ百金の利があっても人を重く裁くな」と戒めた。
  • 建武初め、陳咸の孫(欽の子)陳躬が廷尉左監となり早世、その子陳寵が家業を継いだ。州郡吏を経て司徒鮑昱府に辟され、三府の掾属が交遊にかまけて職務を怠る中、陳寵は職務に勤め、鮑昱に時務を献策し辞曹(訴訟担当)に転じた。長年滞留していた司徒府の訴訟を『辞訟比』七卷に整理し事類別に体系化し、これが公府の法として定着した。
  • 三遷して粛宗初め、尚書となった。永平以来の厳切な政風を改めるべきと上疏し、唐堯の「眚災肆赦」、周公の「庶獄に誤ることなかれ」、伯夷の「五刑を敬んで三徳を成す」を引き、厳明な政の後には寛をもって済すべきだと説き、「政は琴瑟を張るがごとし、大絃が急なら小絃は絶える」との子貢の言を引いて鄭の子産の仁政を模範に挙げた。帝はこれを容れ寛厚な政を旨とするようになり、鑽鑿など惨酷な刑罰を廃し、文致(無理な罪の捏造)の訴えなど五十余事を令に定着させた。
  • 従来、死刑執行は冬(三冬の月)に限られていたが、元和二年の旱魃を「冬全体に処刑を行わなかったため陰陽が乱れた」とする賈宗らの上言に対し、陳寵は暦法の三微三統説(十一月・十二月・十三月の陽気の萌しの理)を精緻に論じ、殷・周の暦法や『月令』の「孟冬の月、獄刑を促し罪を留めるなかれ」の記述を根拠に、蕭何が創めた「季秋論囚、立春を避ける」旧制を守るべきだと反論し、災害は改暦とは無関係だと論じた。帝はこれを容れ改暦は行われなかった。
  • 陳寵は謹厳な性格で、樞機の職にありながら門人を謝絶し公事に専念した。皇后の弟侍中竇憲が真定令張林を尚書に推薦した際、帝の問いに「林は才能はあるが素行が貪濁」と答え竇憲に深く恨まれた(張林はのち贓罪で処罰され陳寵の見立てが正しかったことが証明された)。帝崩御後、竇憲が権を握ると、鮑徳(黄門侍郎)が竇瓌に「陳寵は先帝に長く重用されながら忠能の賞を受けず微細な過失で報復されている」と諫めたため、太山太守として外に出され、のち広漢太守となり、豪族の訴訟が絶えない西州を良吏王渙・鐔顕らの登用で治め、洛県で毎年雨天に聞こえていた哭き声の謎(乱世に葬られなかった骸骨があった)を突き止め手厚く葬ったことで怪異が絶えたという逸話も伝わる。
  • 竇憲の匈奴征伐に際し多くの公卿が賄賂を送る中、中山相張郴・東平相応順と共に守正を貫き、竇氏敗滅後、和帝は陳寵を大司農に抜擢した。永元六年、郭躬に代わり廷尉となり、疑獄には自ら経典に依拠した寛恕の判断を奏上し、多くの命を救った。また律令が『甫刑』(尚書呂刑)の規定を大幅に超えていることを指摘し、死刑六百十・耐罪千六百九十八・贖罪以下二千六百八十一のうち甫刑を超過する千九百八十九条を刪除し、五刑合計三千に整理すべきと上奏したが、実施前に詔獄の吏の不正に連座して免刑され尚書に留まった。大鴻臚に遷り、永元十六年、徐防に代わり司空となった。法律を伝えながら経書にも通じ「任職相」と称され、在位三年で薨去。

史論・賛への布石として(陳忠へ)

陳忠(陳寵の子)

  • 陳忠、字は伯始。永初中、司徒府に辟され三遷して廷尉正となり、司徒劉愷の推薦で尚書に抜擢された。父の遺志を継ぎ寛詳を旨とし、父が未施行のまま終わった甫刑超過条項の削減案を継承して二十三条を「決事比」として上奏し、蚕室刑(宮刑)を除き、贓吏三代禁錮を解き、狂気による殺人の減刑、親族の身代わり刑赦免など寛刑を進めた。
  • 鄧太后崩御後、安帝親政の初めに賢才登用を進言し、馮良・周爕・杜根・成翊世らを推薦した。災異による有道の士の求めに際し、上疏して「仁君は広く直言を容れる、高祖が周昌の桀紂の譬えを許した例、文帝が爰盎の人豕の譏りを容れた例、武帝が東方朔の宣室の正論を容れた例、元帝が薛広徳の自刎の切諫を容れた例」を挙げ、直言する士を優遇し一等昇進させるべきだと説き、施延ら有道の士が登用された。
  • 帝が中常侍江京・李閏や乳母王聖を寵愛し権を専らにする状況を憂え、『搢紳先生論』を著して諷刺した(内容は詳しく伝わらない)。元二の厄(災異)による民の流亡・盗賊蜂起を郡県が隠蔽する現状を憂え、「小さきを見て慎み、幾を識る」ことの重要性を説き、盗賊への厳罰と地方官の怠慢への処罰を強化する具体的な科条(強盗発生時の郡吏・県令の段階的処罰規定)を上奏した。
  • 元初三年、三年喪の服喪制度復活の詔を受け、孝宣帝の旧令(軍務・官務中の祖父母の喪でも三月未満なら徭役を免ずる)に倣うべきと上言し容れられた。建光中、尚書令祝諷・尚書孟布らが文帝の薄葬の故事や光武帝の告寧廃止を理由に三年喪制度の再廃止を議した際、陳忠は『孝経』の孝道の普遍性、『春秋』の閔子騫の故事を引いて反論し、「大漢の興隆は先王の制度の漸進的復活によるもの」と論じ、この議は陳忠の意見が採用され令に定着した。
  • 尚書僕射に転じた頃、帝が乳母の娘伯栄を甘陵(帝生父の陵)にたびたび遣わし、伯栄が寵を恃んで郡国に礼遇を強いていたことと、水害の頻発を結びつけ、上疏して「洪範五事」の理(君主の威儀の乱れが陰陽の不調を招く)を説き、伯栄の道中の横暴(二千石が車下で拝礼させられる屈辱、亭伝の過度な整備、賂遺の強要)を具体的に指摘し、韓嫣が副車を借りて江都王に誤って拝礼された故事、石顕・趙昌・朱博・王鳳による讒言の史例を挙げて、女使が万機に干与すべきでないと諫めた。
  • また、三府(三公)が名目のみで実権を尚書が握っている実情を憂え、災異のたびに三公が策免される慣行に対し、丞相翟方進が熒惑守心の凶兆で自殺に追い込まれた成帝期の例を「宋景公の至誠」と対比させて批判し、尚書の決事が旧典に反する場合は文言の巧拙でなく本意を問うべきだと説いた。九卿への疾病見舞いの厚遇制度なども陳忠の建策による。のち尚書令に遷り、延光三年、司隷校尉として宦官・外戚の賓客を厳しく糾したためこれを憚られ、翌年江夏太守に出されたが再び尚書令に留められ、まもなく病没した。
  • (付記)陳忠は父陳寵と共に、太尉張禹・司徒徐防が和熹皇后の父鄧訓の追封を求めた際に旧例なしとして争ったこと、鄧隲への礼を求められても従わなかったことから鄧氏との間に軋轢があり、鄧氏失脚後もこれを弾劾する上疏を重ねたため、当時「陳忠が鄧氏の悪を仕上げに追い込んだ」と評され、順帝の廃太子事件でも来歴・祝諷らの諫争に反対する立場を取ったため、後年、司隷校尉虞翊に罪を追及される一因となった。

史論

  • 論じて言う。陳公(陳寵)は理官(法官)にあって獄を議し死を緩め、幼主を輔けては下の僭上を正した、まさに宰相の器と言える。陳忠もその風を承け、明慎に刑を用い獄を留めなかった点は父に及ぶ。しかし狂気の殺人を聴し父子兄弟の身代わり死を許した判断は大きな誤りであった。これでは不善の者が幸いを得て善人が禍を代わりに受けることになり、進退窮まる結果を招く。

  • 賛して言う。陳・郭の両氏は刑を掌り、その公平さに頼りとされた。郭躬は枯骨(無縁の死者)にまで憐れみをかけ、情をもって断じた。陳忠は詳密を旨とし、損益に一定の程(基準)を持たせ、これを子孫にまで伝えた。施延(陳忠が推薦した有道の士)もまた公卿の高位に至った。