郭躬
- 郭躬、字は仲孫、潁川陽翟の人。父の郭弘は小杜律(杜延年の律学)を修め、太守寇恂の決曹掾として三十年獄を断じ、その判決に怨む者がなく東海の于公に比され、九十五歳で没した。郭躬は父の業を継ぎ数百人の門徒に講じた。郡吏、公府の辟召を経て、永平中、奉車都尉竇固の匈奴出撃に副将騎都尉秦彭が独断で人を斬った罪をめぐり、顕宗が公卿を集めて審議した際、法律に明るいとして召され、他の議者が皆秦彭の罪を認める中、郭躬ひとり「法において彭は斬る権限があった」と主張した。帝が「校尉は督(大将)の統一下にあるはず」と問うと、郭躬は「それは部曲内の話、彭は独立した別将である、軍事は緊急を要し督帥に逐一伺いを立てられない、漢制の棨戟は斧鉞に相当し法に反しない」と答え、帝は郭躬の議に従った。
- 兄弟が共謀して人を殺した事件で罪の帰属が定まらなかった際、帝が「兄が弟を教え導かなかった罪」として兄を重く弟を減じる判断をし、中常侍孫章が詔を誤って両者とも重く報告したため矯制の罪で腰斬に問われかけたが、郭躬は「これは故意でなく誤りであり罰金が相当」と主張、帝が「章は囚人と同県ゆえ故意ではないか」と疑うと、郭躬は「周の道は砥のごとく直、君子は詐りを逆推せず、君主が法を行うにも曲がった憶測で罪を作るべきでない」と答え、帝は納得した。
- 廷尉正に遷ったが法に坐して免ぜられ、のち三遷して元和三年、廷尉となった。郭氏は代々法を掌り寛平を旨とし、獄を断ずるにも矜恕(憐れみ)を重んじ、重罰にすべき四十一の条項を軽くする改正を上奏し、令に定着させた。章和元年の大赦で、四月丙子以前の死刑囚を減刑して金城に戍させる詔が出たが、逃亡中で未発覚の死刑相当者には及ばなかったため、郭躬は「彼らも赦後に捕らえられれば重罰となるのは不公平」として、金城行きに一律すべきと封事を上奏し、粛宗はこれを容れた。郭躬の献策により法の適用で救われた者は多く、永元六年、在官のまま没した。子の郭晊も法律に明るく南陽太守に至った。
郭鎮(郭躬の弟の子)
- 郭鎮、字は桓鍾。家業を継ぎ太尉府に辟され、延光中、尚書となった。中黄門孫程が中常侍江京らを誅して済陰王(順帝)を立てた政変の際、羽林士を率いて衛尉閻景を撃ち殺し大功を成した。尚書令に遷り、太傅・三公は「白刃を冒して姦党を殄滅し宗廟を安んじた功は劉章(呂氏を誅した功臣)に比すべき」と称え、定潁侯二千戸に封ぜられ、河南尹・廷尉を歴任、永建四年、家で没した。長子の郭賀は爵位を弟に譲って逃亡したが、朝廷の追及によりやむなく受爵し廷尉に至った。順帝は郭鎮の功を追想し「昭武侯」の諡を、郭賀に「成侯」の諡を賜った。郭鎮の弟の孫郭僖も法律に明るく延熹中に廷尉、建寧二年に太尉となった。郭氏は郭弘以来数世にわたり法律を伝え、司公一人・廷尉七人・侯三人・刺史二千石侍中郎将二十余人を輩出した名家であった。
附記――他の法家の名族
- 順帝時代、廷尉の呉雄(字は季高)も法律に明るく獄断の公平さで知られ、孤児から身を起こし司徒に至った。若い頃、母の死に人が忌避する土地をあえて選んで葬り、医巫が「族滅を招く」と忠告したのを顧みなかったが、子の呉訢・孫の呉恭まで三代廷尉を務める法学の名家となった。
- 対照的に、粛宗の代の司隷校尉趙興は禁忌を憂えず官舎を頻繁に改築するなど「妖禁」を犯しながらも子孫は栄えたが、桓帝時代の陳伯敬は行動の細部まで凶忌を極端に避ける生活を貫きながら、女婿の逃亡吏に連座して太守邵夔に殺されるという皮肉な結末を迎え、当時の人々は禁忌を軽視する話の証としてこれを語り伝えた。
史論
- 論じて言う。曾子は「上が道を失えば民は久しく散じている、実情を得ても哀れむべきで喜ぶべきでない」と言った。実情を得て喜ばぬ心があれば恕の心が働き、恕の心があれば枉直の判断も託せる。賢人君子が獄を断ずるのはまさにこの理にかなうべきである。郭躬は佐史から身を起こし大小の獄を必ず察し、平らかな刑を旨とした。まさに「喜ばぬ」の徳を体現した者と言えよう。