後漢書卷七十五 袁張韓周列傳第三十五 周榮

周榮(孫の周景)

  • 周榮、字は平孫、廬江舒の人。粛宗の代に明経に挙げられ司徒袁安府に辟され重用された。袁安が竇景を弾劾し竇憲の北単于擁立に反対した上奏文の多くを周栄が起草しており、竇氏の客であった太尉掾徐齮に「刺客が城中に満ちている、覚悟せよ」と脅されたが、周榮は「私は江淮の孤生、先帝の大恩により二城の宰たり得た、竇氏に害されても本望、卒然として禍に遭っても殯歛するなと妻子に命じてある」と毅然と答えた。竇氏敗滅後にその名は顕れ、尚書令・潁川太守を経たが、法に坐して下獄しかけたところ、和帝がその忠節を思い共令に左遷するに留めた。のち山陽太守を歴任し、老病により辞して家で没した。詔で銭二十万を賜り、子の周興が郎中に任じられた。
  • 周興は名声があり、永寧中、尚書陳忠がその孝友の行いと博識を称えて推薦し、尚書郎に任じられた。子の周景は大将軍梁冀府に辟され、豫州刺史・河内太守を歴任し賢を好み士を愛したが、その推挙は自分の一族に偏っていると批判もされた(対照的に司徒韓演の無私な人事が称賛された)。梁冀誅殺後は一時免官・禁錮されたが、忠正の評判により尚書令に復し、太僕・衛尉を経て延熹六年、司空となり、太尉楊秉と共に宦官の姦猾な子弟五十余人を弾劾し、中常侍防東侯・東武陽侯らも罪に問うた。二年で地震により策免され、翌年再び陳蕃に代わり太尉となり、建寧元年、薨去。霊帝擁立の策により安陽郷侯を追封された。子孫も代々要職を継いだが、後漢末の混乱の中、孫の周暉兄弟は董卓に殺害された。

  • 賛して言う。袁公(袁安)は重厚に誠を尽くし奉じ、その徳は忘れられず子孫に及んだ。孟侯(張酺)は経学に博く、帝の側で講義に仕えた。韓棱・周榮は君に仕えること鸇や鷹が鳥雀を追うがごとく、志を同じくした。