韓棱
- 韓棱、字は伯師、潁川舞陽の人、弓高侯韓頽当の後裔。四歳で父を失い母と弟を養い孝友で知られた。父の遺財数百万を従兄弟に譲るなど義に篤かった。郡功曹となった際、太守葛興が中風で政務を執れなくなると陰で二年間代行したが、興の子が吏を任じようとするのを拒んだため誣告され禁錮に処されたが、顕宗はその忠を知り赦した。
- のち尚書令に至り、僕射郅壽・尚書陳寵と共に才能を称され、粛宗から特別に銘入りの宝剣を賜られた(韓棱には「楚龍淵」、深謀ゆえと評された)。和帝即位後、竇憲が刺客を使い斉殤王の子都郷侯暢を暗殺した際、有司が疑いを暢の兄弟に向けようとしたのに対し、韓棱は「賊は京師にいる、近きを捨てて遠きを問うのは姦臣の思う壺」と上疏し、竇太后の怒りを買いながらも主張を貫き、事件が発覚すると予言通りとなった。竇憲が匈奴討伐で贖罪しようとした際も諫めたが容れられず、竇憲が凱旋し大将軍として権勢を極め、尚書以下が万歳を称えようとした際、韓棱は「上とは諂わず交わり、下とは黷さず交わる」との礼を説き、人臣に万歳の称なしと正し、一同恥じ入った。
- 尚書左丞王竜が竇憲に牛酒を贈った不正を弾劾し、竇氏失脚後の残党処理では休暇も取らず職務に励み、帝から「憂国忘家」と賞された。南陽太守に転じ姦盗を摘発し治は厳平と称された。太僕を経て司空に至り、翌年薨去。子孫も代々要職を継いだ(子輔は趙相、孫演は丹陽太守・司徒を歴任)。