張酺
- 張酺、字は孟侯、汝南細陽の人、趙王張敖の後裔。祖父の代から尚書を修め、若くして太常桓栄に学び、門人百人を超えた。永平九年、顕宗が四姓小侯のため南宮に開いた学問所で尚書を教授し、その論難が帝意に適い郎に任じられ、皇太子の教育を担った。質直で経義を守り、しばしば太子の奢侈を諫めたため厳格すぎると憚られもした。
- 粛宗(章帝)即位後、侍中・虎賁中郎将に抜擢されたが数月で東郡太守に出され、親近の任を離れることに不満を感じ辞退の上疏をしたが、帝は「身は外にあっても心は王室を離れず」と諭し赴任させた。剛断な性格で盗徒を厳しく取り締まる長吏の行き過ぎを戒め、忠義の家系(王翁・王隆・王青の三代にわたる殉節)の子孫王青を推挙するなど、公正な人事で知られた。帝は張酺の講義を「史魚の風がある」と称えた。元和二年、帝の東巡狩の際、東郡で師弟の礼をもって尚書を講じさせ君臣の礼を修めるという特別な待遇を受けた。
- 在任十五年、和帝初め魏郡太守に遷った。司隷校尉鄭据が執金吾竇景を弾劾した後、竇景が復位して報復をほのめかした際、張酺は竇景の使者を捕らえて糺した。河南尹となってからも竇景の家人の不法を厳しく取り締まり、竇景の圧力にも屈しなかった。竇氏敗滅後、上疏して「竇氏は誅されたがその罪状が明らかにされねば後世への教訓とならない」とし、夏陽侯竇瓌の忠善な人柄を評価しつつも、三宥の礼(骨肉の刑に三度の宥恕を与える古礼)を厚くすべきと諫め、和帝は竇瓌の処遇を緩めた。
- 永元五年、太僕、数月で尹睦に代わり太尉となった。病を理由にたびたび辞職を願い魏郡太守徐防を後任に推薦したが、帝は許さず慰留し、子の張蕃を通じて「陰陽不和は万民の失所、公の思慮を頼みとする」との勅を伝えた。父が常に田里に暮らし、張酺が昇進のたびに帰省する孝行や、父の死に牛酒を賜り釈服させた恩礼も伝わる。
- のち司隷校尉晏稱との私的な発言(三府の辟吏の不適切さ)が奏上され誤解を招き、廷叱に至った事件で、司徒呂蓋の弾劾により策免されたが、左中郎将何敞ら多くが張酺の公忠を弁護し、帝も重んじた。永元十五年、光禄勲に復し、数月で魯恭に代わり司徒、月余りで薨じた。帝は縞素で臨弔し墓地を賜り異例の恩寵を示した。臨終に子へ「顕節陵(明帝陵)の質素な祭祀に倣い、三公の身で節約を旨とすべし、祠堂を建てず藁葺きの廡で祭れ」と遺言した。曾孫の張済は光和中に司空、その子孫も代々要職を継いだ。