後漢書卷七十四 鄧張徐張胡列傳第三十四 張敏

張敏

  • 張敏、字は伯達、河間鄚の人。建初二年、孝廉に挙げられ尚書に至った。建初中、父を侮辱された子がその侮辱者を殺した事件に対し、粛宗(章帝)が死刑を減じて処断した先例が「軽侮法」として定着しようとした際、張敏は駁議し「これは先帝一時の恩情であって成文の律ではない、死生の決は上下の別によるべきもの、これを容認すれば姦計の萌芽となる」と反対し、『春秋』の義でも子の復讐が減刑の対象とならないのは相殺の道を開かぬためだと論じたが、議は容れられなかった。
  • 重ねて上疏し、孔子の経典も皋陶の法律も民の非を禁じることを目的とするもので、軽侮法の乱立は姦枉を助長すると説き、高帝の三章の約のような簡明な法への回帰を求めたがなお顧みられず、さらに「天地の性、人を貴しとし殺人者は死すというのが三代の通制、一人を生かして天下が敝を受ける」と論じ、和帝がついにこれに従った。
  • 永元九年、司隷校尉、のち汝南太守として清約な政治で称され、延平元年、議郎、潁川太守を経て司空に召されたが、法を奉ずるのみで三年で病を理由に辞そうとした。永元六年春、大射礼で頓仆したのを機に策罷され、病篤く家で没した。