張禹
- 張禹、字は伯達、趙国襄国の人。祖父の張況は光武帝の外戚(皇祖考夫人の族姉)にあたり、光武帝が大司馬として邯鄲を通った際に召し出され元氏令、涿郡太守、常山関長を歴任し、赤眉との戦で戦死した。父の張歆は仇討ちで逃亡した経歴を持ちながら、のち淮陽相・汲令に至った。
- 張禹は篤厚倹約な性格で、父の死に際し汲の吏人が贈った数百万の弔慰金を一切受けず、田宅も伯父に譲って自らは寄寓した。永平八年、孝廉に挙げられ、建初中、揚州刺史に任じられた際、江を渡る際に伍子胥の神を恐れる俗信を退け「子胥に霊あらば私の志が枉げた訴えを正すことにあると知るはずだ、なぜ危害を加えよう」と言って渡り、幽遠の地まで巡察して民の信頼を得た。元和二年、兗州刺史に転じ清平の誉れを得た。
- 三年、下邳相となり、荒廃していた蒲陽陂の水門を開いて灌漑を復興させ、貧民に種糧を貸し与えて数百頃の田を実らせ、隣郡から千余戸の貧民が移住し市をなすほどの繁栄をもたらした。功曹史戴閏が権勢を恃んで郡内で不正を働いた際、自ら徐県の獄に出頭させて法を正した。永元六年、大司農を経て太尉となり、和帝に厚く礼遇された。永元十五年、帝の南巡に際し衛尉を兼ねて留守を守り、帝が江陵まで進もうとするのは危険だと諫めて還御させた。
- 延平元年、太傅・録尚書事に遷った。鄧太后が幼い殤帝の養育にあたり張禹を宮中に住まわせ厚遇したが、張禹は喪中の慎みを説き、上林苑の空地を貧民に貸すよう進言し容れられた。安帝即位後、辞職を願うたびに慰留され、永初元年には安帝擁立の策により安郷侯に封ぜられた。徐防・尹勤と同日に封ぜられたが、その秋、賊乱と水害により徐防・尹勤が策免された際も張禹は不安を覚え辞職を願い出て太尉に再任された。
- 永初四年、鄧太后の母新野君の病に際し帝が見舞いに連日滞在するのを、張禹は司徒夏勤・司空張敏と共に「天子の行幸には常に警護の備えが要る、久しく単外に留まるのは百官も安んじない」と諫め、還宮させた。連年の災荒に国庫が窮乏した際は、三年分の租税前納を郡国に求める上疏を行い許された。永初五年、陰陽不和により策免され、七年、家で没した。