後漢書卷七十一 第五鍾離宋寒烈傳第三十一 鍾離意

鍾離意

  • 鍾離意、字は子阿、会稽山陰の人。若くして郡督郵となり、亭長が賄賂を受けた事件を府が糾弾しようとした際、「春秋は内を先にし外を後にする」との義を説き、まず府内の粛正を優先すべきと太守に進言してその賢を認められた。建武十四年、会稽で大疫が起こると自ら病者を看護し多くを救った。孝廉に挙げられ大司徒侯霸府に辟され、詔により冬に徒を河内へ護送する任を負った際、弘農で病む徒に衣を作らせるよう属県に指示し独断で処理したが、光武帝はこれを聞き「なんと仁の心厚い掾か」と称えた。
  • 瑕丘令となり、盗みを働いた吏檀建を人目を避けて問い罪を認めさせたが刑を忍びず、父に休暇を与えて帰らせたところ、父は自ら子に薬を与えて死なせた。堂邑令に遷った際、父の仇討ちで獄に繋がれた防広の母が病死すると、鍾離意は防広の帰葬を許し、丞掾の反対にも「罪は私が負う」と押し切った。防広は母を葬ると自ら獄に戻り、鍾離意の上申により減死の判決を得た。
  • 顕宗(明帝)即位後、尚書に召され、交阯太守張恢の贓罪による没収品が下賜された際、他の群臣は珠玉を受けたが、鍾離意は「孔子は盗泉の水を飲まず、曾参は勝母の里に入らなかった、汚れた財を受けられない」として辞退し、帝は「清いことよ、尚書の言葉は」と称え、代わりに庫銭三十万を賜った。
  • 尚書僕射に転じ、帝が広成苑にたびたび行幸するのを、狩猟が政を廃すると諌めて即座に還御させた。永平三年夏、旱魃の折に北宮の大規模な造営が行われていたことに対し、冠を脱いで上疏し、成湯が旱魃に六事で自責した故事を引き、「北宮の造営は民の農時を奪う、宮室の華美を憂うのではなく民の不安を憂うべき」と諫め、詔で「湯の六事の咎は一人にある、そなたを咎めぬ」との返答を得て、造営が止められ雨が降った。
  • 尚書の文書に十を百と誤記した際、帝が怒って郎を鞭打とうとすると、鍾離意は自ら進み出て「過失は誰にも起こりうる、怠慢とみなすなら私の位が重い罪も重い」と身を挺して庇い、帝の怒りを解いた。帝は性急で近臣・尚書をしばしば打擲したが、郎の薬崧を杖で打とうとした際、崧が「天子は穆穆、諸侯は煌煌――君主が自ら郎を打ったとは聞いたことがない」と机の下に逃げ込みつつ諫めたため赦された。
  • 鍾離意はしばしば諫争し、詔書を封じ返し、臣下の過失を庇った。天変地異が続いた際には再度上疏し、帝の徳行にもかかわらず天気が和さぬのは群臣が苛刻な政を行い民を害しているためだとし、人・神の心が洽ってこそ天気も和すと説き、刑罰を緩め時気に順うよう求めた。帝は用いなかったが至誠を知り、久しく朝廷に留めず魯相として出した。魯相在任中は徳陽殿の完成式で帝に思い出され、その治は愛利を旨とし民は殷富となった。在任五年、病により官のまま没し、遺言で太平の世は急な変革を戒めるべしと上書した。帝は感傷し銭二十万を賜った。
  • (附記)郎の薬崧は河内の人で朴忠な性であったが貧しく、台上で独り宿直し衣被もなく糟糠を食していたのを帝が見て嘉し、以後尚書以下に朝夕の食事や帷被を給する制が定められた。薬崧はのち南陽太守に至った。