後漢書卷七十下 班固列傳第三十下 班固

両都賦(東都賦)――東都主人の反論

  • 東都の主人は嘆じて言う。「風俗が人を変えるとは痛ましい。あなたは秦人のように館室を誇り河山を頼みとする、それは始皇帝の考えを継ぐもので、大漢の道を知らない。」
  • 主人は続けて、漢の建国は布衣より皇位に登り、六経にも語られぬ非常の功業であったこと、婁敬が情勢を見て遷都を進言し、蕭何が壮麗な宮殿を築いて天下に威を示したのは、やむを得ぬ計であったと説く。西都の賓が武帝・成帝の奢侈な末世のみを見て漢の本質を見誤っていると指摘し、建武・永平の治を語ると宣言する。
  • 王莽の簒奪により天下が乱れ人民が塗炭に苦しんだこと、天がこれを見て光武帝に天命を降したこと、光武帝が昆陽で雷霆のごとく興り、黄河を渡り北岳に拠り、高邑に都して漢を再興したことを述べ、光武帝の功徳は虙羲・軒轅・湯武・殷の盤庚・周の成王の事績にも比すべきものであり、建武の初めは天地が革まり夫婦・父子・君臣の倫が新たに定まった時であったとする。
  • 明帝(永平)の代には明堂・辟雍・霊台の三雍の礼が整い、袞龍の礼服が定められ、光武廟を「世祖」と尊び、音楽を「大予楽」と改めるなど、文物制度が充実したと説く。天子が四方を巡狩して声教の及ぶ限りを見極め、洛陽の宮室は奢侈にも倹約にも偏らぬ調和を保ち、苑囿では魚も獣もそれぞれの場を得て、蒐狩(狩猟)も『詩経』の礼にかなう時節と作法で行われるとする。
  • さらに、鯨の形をした鐘、玉輅・龍旗を連ねた盛大な巡幸の行列、千乗万騎の大駕、山川の神々への祭祀、明堂・辟雍での朝見と大射礼の様子、庭に連なる貢物と美酒佳肴の饗宴、金石糸竹の楽と九功の歌・八佾の舞、四夷の楽まで揃う壮大な儀礼を描写する。
  • そのうえで天子は驕りの心が萌すことを恐れ、旧章に従い節倹を示す詔を発し、後宮の華美な装飾を除き、農桑を興し末業(商工)を抑え、素朴を尊ぶ風を天下に広めたため、百姓は過ちを洗い清らかになり、学校が林立し礼楽が盛んになったと結ぶ。
  • 最後に主人は、長安の地勢や離宮の壮麗さより洛陽の明堂・辟雍による天人和合の徳、上林苑の珍獣より辟雍に集う道徳の富、遊侠の奢侈より礼法にかなう秩序こそ誇るべきものであり、「あなたは秦の阿房宮の壮大さを知っていても、京洛の制度、王者に外なしとの理を知らない」と論じる。
  • 西都の賓は恐れ入って席を降り、主人に教えを乞う。主人は「明堂詩」「辟雍詩」「霊台詩」「宝鼎詩」「白雉詩」の五篇を示す。各詩は、光武帝を明堂で祭る儀礼、辟雍での養老の礼、霊台での天文観測と瑞祥、永平六年に廬江太守が献じた宝鼎、白雉の瑞祥を、それぞれ簡潔な頌歌の形で称えるものである。賓はこれを聞いて「揚雄・司馬相如の賦を凌ぐ義正しく事実に即した詩だ」と称賛し、生涯誦じ続けると誓う。

粛宗(章帝)への近侍と『典引篇』

  • 粛宗(章帝)は文章を好み、班固はますます寵愛され、宮中で書を読み、巡狩のたびに賦頌を献じ、朝廷の大議論では公卿と難問を弁論した。班固は父子二代にわたり才を持ちながら位が郎に留まっていることを、東方朔・揚雄の故事(蘇秦・張儀の時代に生まれ合わせなかった不遇)になぞらえ、『賓戯』を著してみずからを慰めた。
  • のち玄武司馬に遷り、章帝が諸儒を集めて五経の異同を講じさせた「白虎観会議」の記録『白虎通徳論』を撰集した。
  • 北匈奴が和親を求めた際、朝議では南匈奴の離反を恐れて拒否すべきとの意見が多かったが、班固は建武以来の対匈奴外交(文帝の和親、宣帝の服属、光武帝以来の使者往来)の先例を挙げ、永平八年にも同様の議論を経て使者を送った例を引き、烏桓・康居・月氏など周辺諸国が兵威によらず自ら帰服している今こそ、故事に倣い使者を送るべきだと論じ、通交を絶つ不利益・通じる利益を説いた。
  • また『典引篇』を著し、司馬相如の封禅論が典雅さを欠き、揚雄の論が実に欠けるとし、自らその両者を兼ね備えると自負した。その内容は、太極・両儀の分化から説き起こし、伏羲以来の帝王の系譜、堯・舜・湯・武の禅譲・放伐の理、孔子の春秋による漢の正統性の予言、高祖・光武帝の受命、章帝の代の瑞祥(鳳凰・麒麟・甘露・嘉禾等)の出現を連ね、漢の徳が唐(堯)に匹敵する天命によるものであり、封禅の儀を行うべき時であると説く長大な頌である。

竇憲の匈奴遠征と最期

  • 母の喪により官を去った後、永元初め、大将軍竇憲の北匈奴遠征に中護軍として従軍し、軍議に参与した。北単于が漢軍出撃を聞いて居延塞に使者を送り、呼韓邪単于の故事に倣って朝見を求めた際、竇憲は班固に中郎将の事を代行させ、数百騎を率いて虜の使者と共に迎えに向かわせたが、南匈奴が北庭を撃破したとの報を聞き、私渠海まで進んだところで引き返した。
  • 竇憲が敗れると班固も連座して免官された。班固は子弟の教育に厳しくなく、諸子の多くが法度を守らなかったため吏人に苦しめられていた。かつて洛陽令种兢の車馬を班固の奴が侮辱したことがあり、种兢は竇憲を憚って発せずにいたが、竇氏の賓客が一斉に検挙された際、その機に乗じて班固を捕らえ獄に繋ぎ、班固は獄中で没した。時に六十一歳。朝廷は种兢の専断を譴責しその属吏を処罰した。
  • 班固の著作は『典引』『賓戯』『応譏』のほか詩・賦・銘・誄・頌・書・文・記・論議・六言など、現存するもの合わせて四十一篇に及んだ。

史論

  • 論じて言う。司馬遷・班固父子の史官としての著述は、その大義において顕著な功績を残した。両者とも良史の才ありと称され、司馬遷は文が直截で事実を精査し、班固は文が豊かで事実を詳細に記した。班固の叙事は誇張も抑圧もなく、豊かでありながら乱れず、詳細でありながら体をなし、読む者を飽きさせない。まことに名を成すに値する。
  • 班彪・班固は司馬遷が聖人の是非としばしば異なると批判したが、班固自身もまた、死節を軽んじ正直な行いを叙べず、殺身成仁の美を語らなかった点で、司馬遷が仁義を軽んじ節義を賤しんだ以上の過ちを犯している。班固は司馬遷の博物洽聞でありながら知恵で極刑(腐刑)を免れられなかったことを憂えたが、班固自身もまた大戮に陥った。「知は及べどもこれを守れず」と孔子の言う通り、古人が「目は毫毛を見て己のまつげを見ず」と論じたのは、まさにこのことである。

  • 賛して言う。班彪・班固の二人は文を懐き帝紀を編み、良史たる司馬遷・董狐に比すべく、司馬相如・揚雄の華麗さをも兼ね備えた。班彪は『王命論』により天命を識り、班固は世の紛擾に迷った。