後漢書卷七十上 班彪列傳第三十上 班彪

隗囂への諫言

  • 班彪、字は叔皮、扶風安陵の人。祖父の班況は成帝の代に越騎校尉、父の班稚は哀帝の代に広平太守。班彪は沈重で古を好み、二十余歳の頃、更始帝の敗死で三輔が大乱となると、天水に拠る隗囂の下へ難を避けた。
  • 隗囂が「周の廃興と異なり、今また従横の世が来るのか、それとも一人が運を承けて興るのか」と問うと、班彪は「周は諸侯の力が強大化して分裂したが、漢は郡県制のもと君主が専権を握り、臣に百年の権柄はない。成帝以降、外戚の専横や哀帝・平帝の短祚で王莽が簒奪したが、それは上からの危機であって民の恨みによる崩壊ではない。今、劉氏を称する群雄が同時に興っているのは、七国のような世襲の資本を持たぬまま民が漢の徳を慕っているからだ」と答えた。隗囂は「愚民が劉氏の名を慕うだけで漢の再興と見るのは浅い、劉季も秦の鹿を逐って取っただけではないか」と反論した。
  • 班彪は隗囂の言を憂い、世の乱れを嘆いて『王命論』を著し、漢の徳は堯の霊命を承けたものであり天運によるもので詐力の及ぶところではないと説き、隗囂を目覚めさせようとしたが叶わなかった。そこで河西に逃れ、大将軍竇融の従事となり師友として遇され、竇融のために漢に帰順し河西を統べて隗囂に対抗する策を立てた。
  • 竇融が召還され京師に戻った際、光武帝が「その上奏文は誰が助けたのか」と問うと、竇融は「従事班彪の作である」と答え、帝はその才を聞き召見して司隷の茂才に挙げ、徐県令に任じたが病により免じた。その後も三公府の招聘にたびたび応じてはすぐ去った。

史書の編纂と司馬遷評

  • 班彪は才高く著述を好み、史籍に専心した。武帝の代、司馬遷が『史記』を著したが太初以後は記録が絶えており、後の好事家(揚雄・劉歆・陽城衡・褚少孫・史孝山ら)が時事を綴ったものの鄙俗で『史記』の続編たりえなかった。班彪は前史の遺事を採り異聞を貫いて『後伝』数十篇を著し、前史の得失を論じ正した。
  • その序論の要旨は次の通り。上古から周代まで史官が典籍を司り、諸侯国にもそれぞれ史官があった。孔子は「楚の檮杌、晋の乗、魯の春秋、その事は一つ」と言った。魯の左丘明が定公・哀公の頃、その文を集めて『左氏伝』三十篇を作り、また異同を撰して『国語』二十篇とした。これにより檮杌・乗の記録は廃れ、左氏・国語のみが世に伝わった。また黄帝以来春秋時代までの帝王・公侯・卿大夫を記録した『世本』十五篇があり、戦国期には『戦国策』三十三篇、漢初には陸賈の『楚漢春秋』九篇があった。
  • 武帝の代、太史令司馬遷が左氏・国語を採り世本・戦国策を刪って楚漢・列国の事跡に基づき、黄帝から獲麟に至るまでを本紀・世家・列伝・書・表百三十篇にまとめたが、十篇は欠けている。司馬遷の功は漢の高祖から武帝までを記録した点にあるが、経伝・百家の事を多く採録したため疎略な点があり、博聞広載を功とするあまり論議が浅く篤実さに欠ける。学術では黄老を崇めて五経を軽んじ、貨殖を論じては仁義を軽んじて貧窮を恥じるとし、遊侠を論じては節を守る者を賤しみ俗功を貴んだ――これが司馬遷の大きな弊であり、極刑(腐刑)を受けた咎の由縁でもある。
  • とはいえ叙述に優れ、辞は華美に流れず質朴に過ぎず、文質相称う良史の才であった。もし五経の法に依り聖人の是非に従っていれば、なお及第であったろう。『左氏』『国語』『世本』『戦国策』『楚漢春秋』『太史公書(史記)』は、今にして古を知り後にして前聖を観る耳目である。司馬遷は帝王を「本紀」、公侯の伝国を「世家」、卿士の特起を「列伝」と呼んだが、項羽・陳渉を本紀・世家に進め、漢室の王族である淮南王・衡山王を列伝に落としたのは、進退を誤ったものである。細部の条例も経に依っておらず、一人で広範な資料を編んだため冗長で不揃いな箇所も多い。班彪は自らの後篇では事実を精査し文を整え、世家を立てず紀伝のみとし、「殺(削)を見て極(正)とする」(簡潔で公正な)春秋の義に則ったと述べた。

太子・諸王への輔導論

  • 班彪は司徒玉況府に再び辟され、東宮建立・諸王国開設の時、師保の官がなお欠けているとして上言した。「性は近くとも習いにより遠くなる」との孔子・賈誼の言を引き、善人と居れば善に、悪人と居れば悪に感化されるゆえ聖人は交わる相手を慎むとし、成王が周公・召公ら賢臣に囲まれて即位一日にして天下太平となった故事、『春秋』の「子を愛せば義方をもって教え驕奢淫佚に流させぬ」の教え、文帝が鼂錯に太子を法術で導かせ、賈誼が梁王に詩書を教え、宣帝が劉向・王褒・蕭望之・周堪らに元帝を輔けさせた先例を挙げ、今の皇太子・諸王には傅相が未整備であるとして、名儒で威重明通な者を太子太傅に選び、東宮・諸王国に官属を備えるべきだと説いた。また旧制の太子朝見の礼儀(五日に一度の朝見と食事の視察)を守るべきことも述べた。上奏は帝に容れられた。
  • のち司徒の推薦で望都の長吏となり民に愛され、建武三十年、五十二歳で在官のまま没した。著した賦・論・書・記・奏事は合わせて九篇。二子の班固・班超があり、班超には別伝がある。

史論

  • 論じて言う。班彪は通儒の上才でありながら危乱の世に身を処し、行いは道を踰えず、言は正を失わず、仕えては急がず節を違えなかった。文華を敷いて国典を助けながらも賤しく薄い地位に甘んじて憂えなかった。世運がいまだ弘まらぬ時代ゆえ貧賤を恥じなかったのであり、なんと道を守る恬淡さの篤いことか。