後漢書卷六十九 劉趙淳于江劉周趙列傳第二十九 周磐
周磐(蔡順附)
- 周磐、字は堅伯、汝南安成の人、征士周爕の宗族。祖父周業は建武初め天水太守。若くして京師で古文尚書・洪範五行・左氏伝を学び、礼を好み経典に背かぬ言のみを口にし、諸儒に宗とされた。貧しく母を養い、詩「汝墳」の卒章を誦して感慨し、韋帯を解いて孝廉に応じ、和帝初め謁者、任城長、陽夏・重合の令を歴任し治績を挙げたが、母を思い官を棄てて帰郷、母の死には哀を尽くし喪に服し、墓側に廬して門徒千人を教授した。公府三度の辟召にも「有道」の名で特に召された。
- 友人に「方回や支父が神を惜しみ栄利に生を乱されなかった」と語り、親も没した今は何も求めぬと出仕を拒んだ。建光元年、七十三歳の元日に諸生を集めて講論し、その二子に「先師東里先生の夢を見た、命の終わりが近い」と告げ、桐棺・椁で足り、埋葬は簡素にし、堯典一篇を写した簡と刀筆を棺前に置いて聖道を忘れぬ証とするよう命じた。その月の望日、病もなく没し、学者は「命を知る」と称えた。
- 同郡の蔡順、字は君仲も至孝で知られた。幼くして父を失い母を養い、薪を求めて出た際、客が来て母が指を噛んで呼び戻す合図とし、蔡順は心が動いて薪を捨て駆け戻った。母が九十で没した際、まだ葬らぬうちに里で火事が起き、蔡順は棺柩に伏して号泣し天を呼ぶと火は他の家を焼いて棺に及ばなかった。太守韓崇に召され東閣祭酒となったが、母が生前雷を恐れたため、母の死後も雷が鳴るたびに墓を巡って「順ここに在り」と泣いた。太守鮑衆の孝廉推挙にも墳墓を離れられぬとして応じず、八十歳で家で没した。