後漢書卷六十九 劉趙淳于江劉周趙列傳第二十九 劉平

序論――孝の意義

  • 孔子は「孝の極みは父を厳んじ天に配することにあり、周公はその人である」と言い、子路には「貧しく親を養えず葬れずとも、菽(豆)を啜り水を飲むことこそ孝である」と説いた。鐘鼓は楽の本質ではないが器として欠かせず、三牲(供物)は孝の主眼ではないが養いは廃せない。器を飾って本を忘れるのは楽の道を失うことであり、義をもって養えば粗食も厚い供物に勝る。禄を求めて親を養おうとするのは、水菽の乏しさを恥じて禄を干める浅ましさである。誠を尽くして孝を積めば禄も自然に厚くなる――これが義をもって養うということである。
  • 廬江の毛義は貧しく孝行で知られたが、南陽の張奉が訪ねた際、府からの辟召の檄が届くと喜色を浮かべたため、志の高い張奉はこれを卑しみ帰った。しかし母の死後は喪に服し、辟召には礼をもって進退し、賢良に挙げられても応じなかった。張奉はのちに「賢者は測りがたい、あの喜びは親のためだったのだ」と嘆じた。家貧しく親老いれば官を選ばず仕えるという類である。建初中、章帝は詔でこれを称え穀千斛を賜り、寿を全うした。
  • 安帝の代、汝南の薛包は母を失い至孝で知られ、父が後妻を娶ると継母に憎まれ追い出されたが、泣いて去らず、殴打されても門外に廬して朝には掃除に通い、ついに父母が慙じて呼び戻した。六年の喪に哀を尽くし、弟子が分財別居を求めると財の半分を分け、老いた奴婢や荒れた田・朽ちた器物をあえて自ら取った。建光年間、侍中に召されたが病と称して固辞し、八十余で寿を全うした。この二人は至誠を推し、行いが心に信じられ人を感化して名を成した者であり、江革・劉般らの行いも同様である。ここにその事跡を記す。

劉平

  • 劉平、字は公子、楚郡彭城の人。もとの名は曠、顕宗(明帝)の代に平と改めた。王莽の代、菑丘県の長を守り善政を行い、その後は各地の劇賊平定に当たり治績を挙げた。更始の乱世、弟の仲が賊に殺され、遺された仲の女児が一歳であった際、劉平は仲の娘を抱いて自分の子を棄て、「二人とも生かす力はない、仲の血筋を絶やせない」と母を説いた。
  • 母子で野沢に隠れ、劉平が食を求めに出た際、飢えた賊に捕らえられ煮られようとしたが、老母に食を届けてから戻って死ぬと涙して誓い、賊はその至誠に感じて放った。約束通り戻って詣でると、賊は「烈士とはこの人のことだ」と驚き放免した。
  • 建武初め、平狄将軍龎萌が彭城で反し郡守孫萌を攻めた際、劉平は白刃を冒して自らを孫萌の身代わりにし、十創を負って倒れながらも代死を願い、賊は「義士だ、殺すな」と兵を収めた。孫萌が息絶えかけて水を求めた際は自らの創血を飲ませ、死後はその喪を本県まで送り届けた。
  • 孝廉に挙げられ済陰郡丞となり、太守劉育に重んじられた。父の喪に服したのち全椒長となり恩政を施し、病により免ぜられた。顕宗の初め、尚書僕射鍾離意が劉平・琅邪の王望・東莱の王扶を賢者として推薦し、三人とも七十歳で恬淡な人柄が地域を感化していると称えた。詔により召され、議郎を経て侍中に再遷し、永平三年に宗正となり、承宮・郇恁ら名士を推薦し続けた。在職八年、老病を理由に辞し、家で没した。

王望

  • 王望、字は慈卿。会稽で客授し、議郎から青州刺史となり威名があった。州郡の旱魃で困窮する民を見て、独断で倉の布粟を出して飢民五百余人に与え、褐衣を作らせた。事後に報告したが、帝は事前上奏がなかったことを問題視し百官に議させた。公卿は法に反すると批判したが、鍾離意ひとり「華元・子反が君命を待たず楚宋を和させた『春秋』の故事は美談とされる」と弁護し、帝はこれに納得して罪を問わなかった。

王扶

  • 王扶、字は子元、掖の人。若くして節行を修め琅邪の不其県に寓居し、郷里を感化した。国相張宗の招聘に応ぜず、強いて招かれかけると杖を突いて郷里に帰り、太傅鄧禹の辟召にも応じなかった。のち議郎に任じられ、朴訥だが沈毅な人柄で当世に重んじられた。永平中、臨邑侯劉復が『漢徳頌』で名臣として称えた。