知略で賊を破った太守
- 楊璇は字を機平、会稽烏傷の人である。高祖父楊茂はもと河東の人で光武帝の征伐に従い威寇将軍・烏傷新陽郷侯に封じられ、建武年間に封地に就いたが三代にわたり伝封の後、罪を得て国を除かれ、そのまま烏傷の家となった。父の楊扶は交阯刺史として理政の名があり、兄の楊喬は尚書として容儀端麗で政事を建言し、桓帝がその才貌を愛して公主を娶らせようとしたが固辞し、聞き入れられぬと口を閉ざして七日絶食し没した。
- 楊璇は孝廉に挙げられ、霊帝の代に零陵太守となった。当時蒼梧・桂陽の猾賊が集まり郡県を攻め、賊は多く楊璇の兵力は少なく吏人は恐れた。楊璇は数十台の特製の馬車を作り、車上に石灰を入れた袋を積み馬の尾に布索を結び、また矢を専ら射る兵車を用意して会戦の計を練った。風下から馬車を先頭に走らせ石灰を撒くと賊は目が見えなくなり、布に火をつけると馬が驚いて賊陣に突入し、後続の兵車が矢を乱射し鉦鼓が鳴り響くと群盗は驚き散った。追撃で多くを傷つけ斬り渠帥を梟首し郡境は清まった。
- 荊州刺史趙凱は、楊璇自身は賊を破っていないのに功を偽って独占したと誣告した。楊璇は反論の上奏をしたが趙凱に党助がいたため檻車で召還され厳重に監禁され自ら訴える術がなかった。そこで自ら腕を噛み血で衣に文を記して賊を破った経緯と趙凱の誣告の実情を書き、密かに親族に託して朝廷に届けさせた。詔により楊璇は赦されて議郎を拝命し、逆に趙凱が誣告の罪を受けた。楊璇は三たび遷って渤海太守となり治績を挙げたが事に坐して免ぜられ、のち尚書令張温の推挙で尚書僕射を拝命し、病により辞職を願って家で没した。
史論
- 安帝・順帝以後、朝廷の威風は次第に薄れ、寇賊の跳梁は隙あらば起こり、人を掠め邑を襲う者は絶える間もなかった。皇帝・王を偽称する者は十数人を数え、あるいは神託を装い、あるいは冕服を僭したが、その頭目に真に名を残す者はいなかった。しかし城塁は四郊に満ち、官吏は東奔西走を強いられた。数将(張宗・法雄・滕撫・馮緄・度尚・楊璇ら)はみな力を尽くし労苦をもって功を立てたが、時宜を得た恩賞が与えられぬまま、根拠の薄い讒言がしばしば彼らに及んだ。これをもって推せば、政道が公正であり続けることの難しさが分かる。
賛
- 張宗は鄧禹を助けあえて殿軍を引き受け、江淮・海岱の間で寇賊を討ち滅ぼしたが、その功を誰が明らかに評したろうか。法雄・度尚・馮緄・滕撫・楊璇は権謀を用いて賊を破り、いずれも軍を整えて凱旋した。