後漢書卷六十四 梁統列傳第二十四 梁竦

悲劇の系譜と『七序』

  • 統の子(松の弟)。字は叔敬。孟氏易を学び、兄・松の事件に連座し弟の恭と共に九真に流された。江湖・沅湘を経て、伍子胥・屈原の非業の死に感じ入り「悼騒賦」を作り玄石に繋いで水に沈めた。顕宗(明帝)の詔で本郡に戻され、閉門して著述に励み『七序』を著し、班固に「孔子が春秋を著して乱臣賊子を懼れさせたように、竦の七序は素餐の徒を恥じさせる」と評された。
  • 施しを好み財を蓄えず、長嫂・舞陰公主を篤く敬った。志を得ぬまま「大丈夫たるもの生きては封侯、死しては廟食すべし」と嘆いた逸話が伝わる。3男3女があり、2女が肅宗(章帝)の後宮に入り貴人となる。うち小貴人が和帝を生むが、竇皇后がこれを自らの子として養い、竇氏一族が梁氏の台頭を恐れ建初8年に2貴人を讒殺、竦も無実の罪で獄死させられた(漢陽太守鄭据による審理)。家族は九真に流され、舞陰公主も連座して新城に徙された。
  • 永元9年、竇太后崩御後、梁扈の従兄・梁禅が旧典(母は子を以て貴し)に基づき梁貴人の尊号追贈を求める奏記を行い、太尉張酺の取り次ぎで和帝が感激。さらに貴人の姉・樊嫕の切々たる上書(竦の冤罪と一族の苦難を訴える内容)が帝を動かし、竦は襃親愍侯として追封、恭懐皇后の陵傍に改葬された。子の棠・雍・翟・邑は各5千戸の侯に封じられ、梁氏一族は大いに栄えた。