謙譲を貫いた外戚
- 陰興、字は君陵。光烈皇后の同母弟。建武2年、黄門侍郎・期門僕射として従軍。光武帝の行幸には常に傘を掲げて自ら風雨をしのぎ先導し、信頼が厚かった。賓客と交わりつつも侠客を近づけず、住まいも風雨を凌ぐ程度に留めた。
- 侍中・関内侯に叙せられた際、封爵を固辞し「一族に多くの爵位が集中するのは天下の不満を招く」と述べた。貴人(皇后)に理由を問われ「亢龍有悔(極まれば悔いあり)」の易の言を引いて謙抑を説き、皇后も深く感じ入り宗親のための昇進要求を控えたという。
- 衛尉として皇太子輔導も担い、明帝の風眩の病の際は雲台広室で顧命を受ける重責を担うが、快癒後の大司馬推挙も涙して固辞した。建武23年、39歳で没した。従兄の陰嵩とは不仲であったが、臨終に際し議郎席広・謁者陰嵩の才を推薦し、後に明帝はこれを用いた。
- 明帝は永平元年の詔で興の忠節(周昌の直諫に比す)を称え、興の子の慶を鮦陽侯に、慶の弟の博を㶏強侯に封じた。慶は田宅財物を弟の員・丹に譲る義譲を示し黄門侍郎に抜擢された。興の弟の就は宣恩侯(後に新陽侯)を継いだが、子の豐が酈邑公主殺害事件を起こし国除となった。陰氏は計4人が侯に封じられた。
逸話――陰子方の竈神信仰
- 陰氏は代々管仲の祀を奉じ「相君」と呼んだ。宣帝の時、至孝の陰子方が臘日に竈神を敬い黄羊で祀ったところ一族が急速に富み栄えたとの伝説が付記される。以後、陰氏は臘日に竈神を祀り黄羊を供える風習を続けたという。
史論(総括)
- 賛に曰く。権勢を誇る一族はしばしば傾き、后妃の一門は非難を招きやすいが、樊氏は代々篤実、陰氏もまた驕奢を戒め、恭順な子孫が代々爵禄を継いだ、と。