後漢書卷六十一 郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列傳第二十一 蘇章

清節と復讐

  • 蘇章、字は孺文。扶風平陵の人。八世祖の建は武帝期の右将軍。祖父の純は厳格で「三輔の大人」と称された。章は学識に優れ、冀州刺史として旧友の清河太守の不正を摘発、私恩と公法を区別する逸話(「今夕の飲は私恩、明日の案事は公法」)で知られた。幷州刺史としても権豪を挫き免官、家で没した。
  • 族孫の蘇不韋、字は公先。父の謙が金城太守辞任後、私に洛陽に赴いた際、旧怨のあった司隸校尉李暠に獄死させられ屍を辱められた。不韋は18歳で仇討ちを誓い、姓名を変えて剣客を募り李暠を狙うが失敗、右校の芻藁の中に1ヶ月間潜んで李暠の寝室に達し、妾と子を殺害。さらに李暠の父・阜の墓を暴いて首を斬り「李君遷父頭」と市に晒す壮絶な復讐を遂げた。
  • 世人の一部は墓を暴いた不義を非難したが、郭林宗は伍子胥との比較でむしろ蘇不韋の孤立無援での復讐を高く評価した。後に段熲との確執に連座し、司隸段熲の追及により蘇不韋一族六十余人が皆殺しにされた。段熲自身も後に陽球に誅殺され、世人は「蘇氏の報い」と評した。

羊続――清廉の太尉候補

  • 羊続、字は興祖。太山平陽の人。竇武に連座し禁錮10余年を経て廬江太守として黄巾討伐に功、南陽太守として趙慈の乱を鎮圧。府丞が贈った生魚を庭に懸けて示し以後の賄賂を断った「懸魚」の故事で知られる。妻子にすら質素な生活を強いた逸話も伝わる。
  • 霊帝が三公任命の礼銭千万を要求する慣行の中、続は自らの綿入れの粗末な袍を示して「臣の持てるものはこれのみ」と応じ、これが帝の不興を買い太尉には昇らなかった。48歳で病没、薄葬を遺言した。