後漢書卷六十一 郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列傳第二十一 廉範
機知の将
- 廉範、字は叔度。京兆杜陵の人。趙将廉頗の後裔。父の死に際し、資財を辞退し徒歩で棺を運び、船が難破した際も棺を抱いて共に沈んだ逸話が伝わる。隴西太守鄧融の功曹となるが、融が弾劾された際、身を隠して獄卒に変名で仕え、融の世話をし続けた(正体を明かさぬまま融の死後に葬儀を執り行った)。
- 薛漢(楚王英事件で誅殺された師)の遺骸を恐れず収めたことで顕宗の怒りを買うが、廉頗の子孫であることを明かし帝に赦された。雲中太守として匈奴の大軍に対し、松明を三又に括って多数の兵に見せかける計略(疑兵の計)で撃破。蜀郡太守として旧来の夜間作業禁止令(火災防止のため)を撤廃し、貯水を義務付けるのみとしたところ民が喜び「廉叔度来何暮、不禁火民安作」と歌った。
- 財産を宗族朋友に施し、肅宗の崩御時、廬江郡掾嚴麟の窮状を見て自らの馬を貸し与えた義侠の逸話も伝わる。「前に管鮑あり、後に慶廉あり」と称された。
史論(郭伋・杜詩・孔奮・張堪・廉範・王堂・蘇章)
- 論じて言う。張堪・廉範は共に気節・義侠で名を成し、危急を救う姿は壮とするに足る。高祖が欒布を赦した故事、明帝が廉範を怒りつつも赦した故事のように、義を聞いて考えを改めることは君道の要である。