孝行と選挙論の士
- 韋彪、字は孟達。扶風平陵の人。高祖の賢は宣帝期の丞相、祖父の賞は哀帝期の大司馬。彪は両親の喪に3年服し痩せ衰えるほどの孝行を尽くし、儒宗と称された。魏郡太守を経て、肅宗即位後は左中郎将・長楽衛尉。
- 西巡狩に従い、蕭何・霍光ら高祖・宣帝の功臣の子孫を顕彰すべきと建言し採用された(蕭何の子孫は既に絶え、末孫の熊を鄼侯に封じた)。大鴻臚として、選挙における人材評価は「才行」を優先し、閥閲(家柄)のみに頼るべきでないと論じ、二千石(郡太守)の人選こそが要であると説いた。
- 盛夏に寒さが続いた異変に際し、尚書の人選(郎官の安易な昇進を戒め、地方統治の経験者を重視すべき)や御史の外遷の是非についても上疏し、絳侯周勃の「木訥の功」を引いて浮薄な才弁より実直な人材を重視すべきと説いた。大鴻臚のまま病により辞し、永元元年に没した。清倹で施与を好み、著書『韋卿子』12篇を残した。
韋義――経学の士とその一族
- 彪の族子。兄の順・豹と共に名を知られ、広都長・甘陵県令・陳県令として治績を挙げ、順帝に上疏して考課制度の整備や竇氏批判を行ったが用いられず不遇であった。兄の豹は司徒劉愷の推挙を辞退した逸話(老いを理由に「犬馬の齢衰う」と述べた)が伝わる。豹の子の著も学識で知られたが、後妻の驕慢により失脚し姦人に害された。
史論(総括)
- 論じて言う。中興以後、三公の地位にあって職務で名を成した者は、遠大な徳礼を先とし小才を後にする者であった。伏湛の郷飲酒礼、侯霸の寛大の令はその例である。宋弘が鄭声を止め色を戒めたのは『詩経』関雎の風に通じる。
- 賛に曰く。伏湛・侯霸は功を興し二国(平原・淮平)を安んじた。淮の人は徐異卿の降伏を慕った。宋弘は遠く仁を体し本を忘れなかった。趙憙は多くの治績を残し、韋彪は理を明らめ、牟融は簡素を尊び、帝の治世を支えて三公の任を全うした。