厳正にして寛恕な太尉
- 趙憙、字は伯陽。南陽宛の人。15歳で従兄の仇討ちを企てたが、仇家が病に倒れていたため「病に乗じて殺すのは仁者の心にあらず」と釈放し立ち去った逸話が伝わる。更始政権下、舞陰の李氏が降伏せず、憙の信義を頼って降った。
- 昆陽の戦いで戦功を挙げ中郎将・勇功侯。更始滅亡後、赤眉軍に囲まれるも脱出、友人の婦を守るため泥を塗って偽装させ助けた逸話や、更始の遺族に衣食を分け与えた逸話が伝わる。鄧奉の乱の際、鄧奉との交友を疑われるが、鄧奉を諫める書簡が発見され「趙憙は真の長者」と評価が一転した。
- 簡陽侯相として単騎で赴任し諸営壁を降した功、懐令として豪猾な李子春の孫の殺人事件を摘発し諸方の口利きにも屈しなかった逸話(趙王良の臨終の願いすら退けた)、平原太守として盗賊を平定した治績が続く。
- 太僕、太尉を歴任し、南単于・烏桓・鮮卑の入朝に伴う辺境政策を担当。建武30年、封禅の実施を建議し中元元年、泰山封禅に従った。光武帝崩御に際し遺詔で喪礼を担当、藩王の礼秩序を正した功も大きい。永平元年、節郷侯。太傅・録尚書事を経て建初5年、84歳で薨去し正侯と諡された。