寛仁の吏
- 卓茂、字は子康。南陽宛の人。父祖は共に郡守を務めた。元帝の時、長安に学び博士江生に詩・礼・暦算を学び通儒と称された。性格は寛仁恭愛で郷党旧友に敬愛された。
- 丞相府史として孔光に仕え「長者」と称された。ある時、他人が茂の馬を自分の馬と誤認して要求した際、茂は争わず馬を渡して歩いて帰り、後に真の飼い主が馬を見つけて謝罪した逸話が伝わる。
- 密令として、民を子のように慈しみ善を挙げて教化し、悪口を言わなかった。亭長が住民から米肉を受け取った件で訴えがあった際、茂は「礼として近隣の贈答は当然のこと、律で全て禁じれば人間関係が成り立たない」と諭し、律と礼の違いを説いて住民と吏の双方を納得させた。
- 密県で行政の廃止・新設を試みた当初は嗤われたが、数年で教化が進み道に落し物を拾わなくなった。平帝の時、河南で大蝗害が起きたが密県だけは被害を免れ、太守が自ら視察して感服した。王莽の京部丞を経て、莽の居摂に伴い病を理由に辞職。
- 更始のもとで侍中祭酒となるが政治の乱れを見て辞職を願い出て帰郷。光武帝が即位すると真っ先に招聘し、「名は天下に冠たり、天下の重賞を受けるべし」との詔で太傅・褒徳侯(食邑2千戸)に封じた。建武4年に薨去、光武帝自ら喪服で葬送に立ち会った。子の崇が汎郷侯を継ぎ、以後崇→棽→訢→隆と継いだが、永元15年に隆が無子で没し国除となった。
- 同時代に王莽への出仕を拒んだ孔休・蔡勲・劉宣・龔勝・鮑宣ら6人がいたことも付記される。
史論(卓茂)
- 論じて言う。建武初め、天下はなお乱れていたが、光武は卓茂を真っ先に厚遇した。その姿は燕の昭王が郭隗を師と仰いだ故事に似る。寛容で仁に近い性格を貫いたことが、士を招く要であったと。