後漢書卷五十四 馬援列傳第十四 馬厳

諫言の士

  • 馬厳、字は威卿。父の余は王莽時代に揚州牧。厳は幼くして孤児となり姉婿の下で育てられ、13歳で洛陽に出て学問を修め、春秋左氏に通じた。援の存命中は郡督郵として叔父を助けた。
  • 明德皇后の立后後は門を閉ざして謙譲を貫いたが、なお嫌疑を避け北地に移住。永平15年、皇后の勅により洛陽に召し出され、顕宗に評価され建武注記の編纂に参与、のち南単于の監護を担う将軍長史となった。
  • 肅宗即位後、侍御史中丞に。日食の災異に際し「刺史・太守が私利を図り選挙が不正である」ことを上疏し、益州・揚州・涼州の刺史の不正を指摘、司直の職を復活させ吏の監督を厳格にすべきと説いた。建初元年、五官中郎将、建初2年陳留太守。
  • 竇固の西域出兵の誤りや竇勲の一族への警戒を帝に進言したことが竇憲兄弟の恨みを買い、以後不遇となる。京師での訛言事件(賊が東方から来るとの流言)でも冷静に対処し、事なきを得た。永元10年、82歳で没。子は固・伉・歆・鱄・融・留・続の7人で、続と融が特に知られ、続は九章算術に通じ護羌校尉・度遼将軍を歴任した(融は別伝あり)。