後漢書卷五十四 馬援列傳第十四 馬援

出自と青年期

  • 馬援、字は文淵。扶風茂陵の人。趙の名将馬服君趙奢の子孫。曾祖父の馬通は重合侯に封ぜられたが兄の何羅の反逆に連座し誅殺され、以後馬氏は顕職に就けなかった。三人の兄・況・余・員はいずれも才能があり王莽期に二千石となった。
  • 援は12歳で孤児となり大志を抱く。斉詩を学ぶも章句にこだわらず、辺郡での牧畜を志したが兄況に「大器晩成、今しばらく好きにせよ」と言われる。況の死後、喪に服し、後に督郵として護送中の重罪の囚人を哀れんで逃がし、自らも亡命して北地で牧畜に従事、数千頭の牛馬羊と数万斛の穀物を得るも「財を殖やす貴きはこれを施すにあり」と述べ、財を昆弟旧知に分け与えた。

隗囂への出仕と光武帝への帰順

  • 王莽末、莽の従弟の衛将軍王林に招かれ掾となるが、莽敗死後は隗囂に厚遇され綏徳将軍として謀議に参与。公孫述の下へ使者として赴いたが、述の尊大な儀礼を見て「天下の雌雄未定の時に驕るとは、俑人(土偶)のようだ」と評し、隗囂に「子陽(公孫述)は井の中の蛙」と報告。
  • 建武4年、隗囂の使者として洛陽に赴き光武に謁見。「今の世は君が臣を選ぶだけでなく、臣もまた君を選ぶ」と述べ、光武の器量を漢の高祖に比した。以後隗囂と光武の間を仲介したが、隗囂が王元の計に従い漢に叛くに至り、援は上疏して隗囂との訣別と忠誠を表明。
  • 光武の命で隗囂配下の高峻・任禹らへの離反工作を行い、旧友の楊広への長文の書簡で隗囂への諫言を尽くしたが応答なく決裂。建武8年、光武の隗囂親征に際し、米を積んで山川の形勢を模型化して献策(「聚米為山」の故事)、光武は「虜は我が目中にあり」と喜び進軍、隗囂軍は大潰した。

隴西太守として羌族を鎮撫

  • 建武9年、太中大夫として来歙の下で涼州平定を監督。建武11年、隴西太守。先零羌を臨洮で破り8千余人を降し、允吾谷・唐翼谷でも夜襲により大勝、中矢の負傷を負いながらも戦功を挙げた。
  • 金城破羌以西の放棄論に対し「田土肥沃で水利もよく、放棄すれば害となる」と反対し容れられ、武威に移住していた金城の民3千余口を帰還させ、城郭・水利を整備し羌豪の懐柔にも努めた。建武13年、参狼羌討伐で氐道の羌を降し隴右を平定。任期6年で虎賁中郎将として召還。
  • 隴西在任中、五銖銭鋳造再開を建議し却下されていたが、京師に戻ってから旧奏の13の反論に一つ一つ答え、ついに施行させた。容貌美しく弁舌に優れ、帝の信頼も厚く「伏波の兵論は我が意に合う」と評された。

交阯遠征と徴側の乱平定

  • 卷県の維汜という妖言の徒の残党(李広ら)の反乱を張宗が鎮圧できず、援がこれを討伐。交阯の徴側・徴貳姉妹の反乱では九真・日南・合浦にまで及ぶ大乱となり、援は伏波将軍・新息侯に任ぜられ、劉隆を副として楼船将軍段志の兵も併せ、海路を進み千余里の道を切り開いた。
  • 建武18年、浪泊で徴側軍を破り、翌年正月に徴側・徴貳を斬り首を洛陽に送る。功により新息侯食邑3千戸。「士は衣食足るをよしとする」という従弟少游の言葉を引いて謙抑を示す逸話が伝わる。
  • 交阯の残党討伐後、嶠南(嶺南)を平定し、西于県の分割(封渓・望海の二県設置)を上奏、越の律令のうち漢律と食い違う10余条を整理した。建武20年秋、凱旋。銅鼓を溶かして馬式(馬の骨相を法とする像)を鋳造し献上、東門京の故事に倣った名馬鑑定法を奏上した。

老将の最期と誡子書

  • 「男児は当に辺野に死し、馬革に屍を裹んで葬らるべし」と語った逸話(孟冀との問答)が伝わる。建武25年、64歳(原文62歳)で武陵五溪蛮討伐を自ら願い出、「矍鑠たる哉、この翁」と光武に称された。
  • 遠征中、耿舒は充県からの進軍を主張したが援は壺頭からの進軍を選び、暑気と疫病に苦しみ自らも病んで陣中で没した。耿舒の兄・耿弇への書簡で援を非難する内容が帝に届き、梁松が監軍として代わり、旧怨(かつて病床を見舞った松に援が拝礼しなかったこと)から陥れられ、新息侯の印綬を没収された。
  • 甥の厳・敦への「誡兄子書」が伝わる。「人の過失を聞いても口にするな」「龍伯高は敦厚謹慎で見習うべきだが、杜季良は豪侠すぎて見習うのは危険」との訓戒(「刻鵠不成尚類鶩、画虎不成反類狗」の喩え)。この書簡は後に梁松・竇固が杜季良と交結した際、光武に示され両者を戒める材料となった。
  • 援の死後、讒言により「珍珠文犀を持ち帰った」と誣告され妻子は喪を旧塋に葬ることも憚った。甥の厳が妻子と共に草索で連なり請罪し、雲陽令朱勃の上書(章邯・燕将の故事、鄒陽の悲しみを引いて援の忠を弁護)により六度の上訴を経てようやく正式に葬られた。
  • 永平初、援の娘が皇后に立てられたため、雲台に画かれた建武名臣の中に援は外戚を憚り含まれなかったが、東平王蒼が「なぜ伏波将軍の像がないのか」と光武に問うた逸話が残る。建初3年、肅宗が忠成侯を追諡。子は廖・防・光・客卿の4人で、客卿は幼くして俊才を示したが早世した。

史論(馬援)

  • 論じて言う。馬援は三輔に名を馳せ二帝の間を行き来し、伊尹の「鼎を負いて湯に干す」の志を抱いて千載の遇を得た。しかし人の禍を戒める智はあっても自ら讒隙を免れることはできなかった。功名の地には讒謗が生じやすいが、利を己に置かず物を見る智を己に反す明とすれば、真に人を恕すことができるのだと。