外戚専権と北伐
- 竇憲、字は伯度。父の勲は誅殺され孤児として育つ。建初2年、妹が皇后に立てられ郎に任じ、侍中虎賁中郎将に。弟の篤も黄門侍郎となり、竇氏一族は宮中で権勢を強めた。
- 憲は沁水公主の園田を安値で強奪する事件を起こし、肅宗が過を指摘すると憲は震え謝罪、田を返還したが重任は与えられなかった。和帝即位後、太后臨朝のもと憲は侍中として機密に関わり、鄧彪を太傅に立てて実権を握った。
- 睚眦の怨みも必ず報復する性格で、都郷侯劉暢暗殺事件(父の獄を裁いた韓紆の子を殺し首を父の墓に供えた逸話、劉暢を暗殺し弟の劉剛に罪を着せた事件)が発覚し太后の怒りを買い幽閉される。憲は自ら匈奴討伐を願い出て贖罪を図り、車騎将軍に任ぜられた。
- 建武(永元)元年、南単于と連合し稽落山で北匈奴を大破、私渠北鞮海まで追撃し名王以下1万3千級を斬り、牛馬羊駱駝百余万頭を獲得、81部・20余万人を降した。燕然山に登り石に刻んで漢の威徳を記す銘(班固作)を残した。その後も金微山で北単于を撃破し行方不明にするなど、匈奴をほぼ壊滅させた。
- 憲は耿夔・任尚を爪牙とし鄧畳・郭璜を腹心とし、班固・傅毅らを幕府に置いて権勢を振るい、刺史・守令の多くが憲の門から出た。尚書僕射の郅寿・楽恢は憲の意に逆らい自殺に追い込まれた。
- 弟の篤・景・瓌も権勢を誇り驕慢を極め、特に景は奴客・緹騎を用いて財貨や人妻を強奪、商人が市を避けるほどであったが官吏は畏れて摘発できず、太后がようやく景の官を策免した。
- 永元4年、憲の党の鄧畳・鄧磊・郭璜・郭挙らが太后・帝を害する謀議を企てたことが発覚。和帝は中常侍鄭衆と謀り、憲の帰京を待って城門を閉じ捕縛。畳・磊・璜・挙は獄死・誅殺、家属は合浦に流された。憲は大将軍印綬を収められ冠軍侯に格下げ、篤・景・瓌と共に封国に赴かされ、ほどなく逼迫されて自殺(瓌のみ自ら身を慎んでいたため逼迫を免れたが、後に稟仮貧人の罪で羅侯に降格)。
- 永元10年、梁棠兄弟が竇后の讒言に関与したとして瓌を自殺に追い込む事件があった。永初3年、諸竇氏は本郡から京師に呼び戻された。
史論(竇憲)
- 論じて言う。衛青・霍去病は漢の富強を頼みに匈奴を討ち国力を消耗させながらも身名を全うして名将と称えられたが、竇憲は羌胡雑軍で北庭を空にし稽落・北鞮の功を挙げながら、末路で権勢に溺れ悪名を残した。士が才を抱きながら塵芥に埋もれる例として惜しまれる。