後漢書卷五十三 竇融列傳第十三 竇固
西域経営の功
- 竇固、字は孟孫。若くして公主を娶り黄門侍郎。書伝を好み兵法に通じ、中元元年に父・友の顕親侯を継いだ。顕宗即位後、中郎将として羽林を監督したが、従兄の穆の罪に連座し10余年家に廃された。
- 天下が安定すると武帝の故事に倣い匈奴討伐・西域開通が図られ、辺境事情に通じた固が起用された。永平15年、奉車都尉として耿忠を副将に、耿秉・秦彭の別働隊とともに天山(祁連山)で呼衍王を破り、蒲類海まで追撃、伊吾盧城に屯田した。他の隊は多く失敗する中、固のみ功を挙げ特進に加位。
- 翌年、再び玉門から西域を攻め、耿秉・劉張を固の指揮下に置いて白山を破り車師を降した(耿秉伝に詳述)。羌胡は固の恩信に服したという逸話(羌胡が炙肉を固自ら食し穢れを厭わなかった逸話)が伝わる。
- 肅宗即位後、大鴻臚、のち光禄勲・衛尉を歴任、辺境事情に精通していたため常に諮問された。章和2年に没し文侯と諡された。子の彪は射声校尉となったが固より先に没し無子で国除。