後漢書卷五十 銚王祭列傳第十 祭遵
祭遵(字は弟孫、潁川潁陽の人、?–33年)。裕福な家に生まれながら倹約を旨とし、軍紀を厳格に守ったことで光武帝に重んじられた。河北平定・涿郡平定に功を挙げ、征虜将軍として隴・蜀方面の対公孫述・対隗囂戦に従軍し、陣中で没した。清廉で恩賞をすべて兵士に分け与えた人柄で知られる。
出自と軍紀の厳格さ
- 祭遵は字を弟孫といい、潁川郡潁陽の人である。家は裕福であったが本人は倹約を旨とし粗衣をまとった。母の喪に土を負って墳を築き、かつて部吏に侵されたときは客を結んで殺した。
- 光武帝が潁陽を過ぎた際、遵はその容儀を気に入られ門下史に任じられ、河北への従軍で軍市令となった。舎中の子弟が法を犯すと遵はこれを処刑し、光武帝は怒って捕らえようとしたが、主簿の陳副が「明公は常々軍の統制を望まれています。遵が法を曲げないのはその教えの実践です」と諫めたため赦された。以後、光武帝は「祭遵に注意せよ、わが舎中の子弟すら殺したのだから諸卿にも私情はない」と諸将に語った。
- 遵はやがて偏将軍となり、河北平定の功で列侯に封じられた。建武二年、征虜将軍・潁陽侯となり、景丹・朱祐・王常・王梁・臧宮らと箕関を経て弘農の厭新・栢華の蛮中の賊を撃った際、弩に口を貫かれ流血しながらも兵を制して大破した。
- 新城の蛮中の山賊・張満が険阻に拠って害をなしたため、遵はその糧道を絶ち堅く守って戦わず、厭新・栢華の残賊と合流した敵を霍陽聚で破り、翌年張満を降して斬った(張満は自ら天子を称していたが、処刑に臨み「讖文が我を誤らせた」と嘆いたという)。
- さらに鄧奉の弟・終を杜衍で破った。涿郡太守・張豊が反乱して彭寵と結んだ際、遵は朱祐・耿弇・劉喜とともにこれを討ち、豊の功曹・孟厷が豊を捕らえて降った(豊は道士の詐術に惑わされ、肘に玉璽が入っていると信じ込まされていた。遵がこれを打ち砕くと、ただの石であった)。
- 遵はその後彭寵を攻め、護軍の傅玄を遣わして李豪を潞で破り、彭寵の死後その地を平定した。
隴・蜀方面での戦功と死
- 建武六年、耿弇・蓋延・王常・馬武・劉歆・劉尚らとともに天水より公孫述討伐に赴いた。長安に至ったが隗囂が漢兵の隴上進軍を拒み言を左右にしたため、諸将は隗囂を懐柔すべしと議したが、遵は「隗囂は姦計を久しく抱いている。今兵を止めれば詐謀を深めるだけだ」と進撃を主張し、帝はこれに従った。
- 遵は前軍として進んだが隗囂の将・王元に隴坻で阻まれ、新関まで追撃したものの諸将は敗れて退いた。汧・漆・栒邑・長安に諸将が分屯し、遵はしばしば隗囂を挫いた(詳細は馮異伝に見える)。
- 建武八年、再び隴に上ったが病を得た。帝は営を訪れて労い、黄門武楽を演じさせた。のち隴に進屯したが、公孫述の援軍により呉漢・耿弇らが撤退する中、遵は独り留まり退かなかった。
- 建武九年春、軍中で没した。清廉・節倹で、恩賞は皆兵士に分け与え私財を蓄えなかった。妻の裳にも飾りを加えず、帝はこれを重んじた。
- 訃報に帝は自ら喪に臨み哭き悲しみ、喪礼は太牢をもって行われ、宣帝が霍光の喪に臨んだ故事に倣った。博士の范升は上疏し、高祖以来の功臣顕彰の道と遵の清廉・忠節を称え、諡号を与えるべきと訴えた。帝は将軍侯の印綬を贈り、朱輪の容車と甲士の軍陣で葬送させ、成侯と諡した。
- 子がなく国は除かれた。兄の午は酒泉太守に至った。
祭彤――出自と遼東太守としての治績(附伝)
- 遵の従弟・彤は字を次孫といい、早く父を失いながらも至孝で知られ、天下の乱世に独り墓のかたわらに留まり続けたため賊すら哀れんだ。
- 光武帝は遵の縁により彤を黄門侍郎とし、遵の没後は偃師長として遵の墓を祭らせた。治績あり、任地は五年で盗賊が絶え課績第一となり、襄賁令に遷った。当時なお天下平定途上で盗賊が横行していたが、彤はこれを誅して政治を清めた。
- 匈奴・鮮卑・赤山烏桓が結んで強盛となり辺境を侵すと、建武十七年、彤は遼東太守を拝命。武勇に優れ三百斤の弓を引くことができ、虜の侵入をしばしば撃退した。建武二十一年、鮮卑万余騎の侵入を大破し、三千余級を斬り数千匹の馬を得た。以後鮮卑は震え辺境を侵さなくなった。
- 建武二十五年、彤は財利をもって鮮卑を招撫し、大都護の偏何らが帰化を願い出た。彤は偏何に匈奴討伐で忠誠を示させ、実際に匈奴の左伊訾部を撃たせて二千余級を得た。以後、鮮卑は毎年匈奴を攻めて首級を献じて賞を受け、匈奴は衰弱し辺境は平穏となった。
- 赤山烏桓が上谷を侵した際も彤は偏何を率いてこれを討たせ、永平元年に破って首を得た。彤の威声は西は武威、東は玄菟・楽浪に及び、辺境の屯兵はことごとく罷免された。
- 永平十二年、太僕に徴された。遼東に三十年近く在任しながら衣服に余分もなく清廉であった。顕宗は東巡で魯の孔子講堂に立ち寄った際、子路の室を指して「これは太僕の室、太僕はわが禦侮(守り)である」と評した。
- 永平十六年、太僕として万余騎を率い南単于左賢王・信とともに北匈奴討伐に赴いたが、信が彤に含むところあり涿邪山と偽った小山で引き返させたため、彤は虜を見ずに帰還し、逗留・畏懦の罪で下獄・免官された。彤は自らを恥じ、獄を出て数日で吐血して没した。臨終に子に「国の厚恩を受けながら功なくして死ぬのは無念だ。賜った財物はすべて上に返還し、自らは兵屯に赴いて死をもって報いよ」と遺言した。子の逢が上疏してこれを伝えると、帝は大いに驚き嘆いた。
- 烏桓・鮮卑は彤を慕い続け、朝賀のたびにその墓に詣で哭いた。遼東の吏人も祠を建てて四時に祭った。
- 彤の孫・参は竇固に従い車師で功を立て遼東太守に遷ったが、永元中に鮮卑の郡界侵入の責で下獄死した。彤の子孫には辺境の官吏として名を成した者が多い。
史論
- 論に曰く、祭彤の武節は剛直・鎮重で、条侯(周亜夫)・穰苴(田穰苴)の輩にも劣らない。辺海の統治で荒々しい風俗を改め、帰順を望む異民族には符験をもって信を立てさせ、烽火を絶やして辺境を鎮めることほぼ三十年に及んだ。「必世而後仁」とはまさにこのことである。しかし一度の過ち(涿邪山の一件)によって憤死したのは、法を厳しく守るがゆえの弊であり、惜しむべきことである。
- 賛に曰く、銚期は燕門を開き、王霸は滹沱の氷を渡らせ、祭遵は礼を好みつつ戦陣に臨んで雅歌を奏で、祭彤は遼東の左辺を制して異民族を懐柔した。