出自と挙兵
- 劉順、字は平仲。光武帝の族兄である。父の劉慶は舂陵侯劉敞の同産弟で、劉順は光武帝と同郷で幼馴染であった。更始の即位に際し劉慶は燕王、劉順は虎牙将軍となったが、更始が赤眉に降ると劉慶は乱兵に殺された。劉順は間道を経て光武帝のもとへ赴き南陽太守に拝され、建武二年に成武侯に封じられた。その邑戸は宗室諸家の中で最も大きく租入は倍した。八年、六安の賊を撃破する任に就き六安太守を拝命したが、数年後帝が召還しようとすると吏人が上書して留任を願い出た。十一年に卒し、帝は使者を遣わして喪を迎え自ら弔問した。子の劉遵が嗣いだが諸王との交通の罪により端氏侯に降格された。劉遵が卒すると子の劉弇が嗣ぎ、劉弇が卒すると嗣がなく国は除かれた。永平十年、顕宗は章陵に幸した際、旧恩を追念して劉順の弟の子三人を郷侯に封じた。
- 初め劉順の叔父・劉弘は樊氏(皇妣の従妹)を娶り二子・劉敏と劉国を生んだ。母とともに更始に従い長安にあったが、建武二年に洛陽へ詣で、光武帝は劉敏を甘里侯、劉国を弋陽侯に封じた。劉敏は経学に通じ行いがあり永平初めに越騎校尉に至った。劉弘の弟・劉梁は俠気で知られ、更始元年、豫章で挙兵し江東を徇めようとして自ら就漢大将軍と称したが、急病で卒した。