挙兵と自立
- 劉永は梁郡睢陽の人、梁孝王の八世の孫である。国を伝えて父の劉立に至り、元始中に平帝の外家衛氏(中山の衛子豪の女)と交通したことで王莽に誅された。更始の即位後、劉永は先に洛陽に詣で梁王に紹封され睢陽に都した。
- 更始の政乱を聞き、国に拠って挙兵し、弟の劉防を輔国大将軍、その弟の劉少公を御史大夫に封じて魯王とし、沛の人周建らを諸郡の豪傑とともに将帥に任じて済陰・山陽・沛・楚・淮陽・汝南を攻略し、合わせて二十八城を得た。
- また使者を遣わして西防の賊帥・山陽の佼彊を横行将軍に拝した。当時、東海の人董憲が挙兵してその郡に拠り、張歩も斉地を平定していたので、劉永は使者を遣わして董憲を翼漢大将軍、張歩を輔漢大将軍に拝し、兵を連ねて東方を専有した。更始が敗れると劉永は自ら天子を称した。
- 建武二年夏、光武帝は虎牙大将軍蓋延らを遣わして劉永を討伐した。もと陳留の人蘇茂は更始の討難将軍として朱鮪らと洛陽を守っていたが、朱鮪の降伏に続いて蘇茂も帰命し、蓋延と共に劉永を攻めさせられたが、両軍は不和となり蘇茂はかえって淮陽太守を殺し数県を掠め、廣楽に拠って劉永に臣従した。劉永は蘇茂を大司馬・淮陽王とした。蓋延は睢陽を数月囲んで陥とし、劉永は家属を率いて虞に逃れたが、虞の人が反して劉永の母・妻子を殺した。劉永は麾下数十人と譙に奔り、蘇茂・佼彊・周建が合軍して救ったが蓋延に敗れ、蘇茂は廣楽へ、佼彊・周建は劉永と湖陵に走って保った。
- 更始三年(建武三年)春、劉永は使者を遣わして張歩を斉王、董憲を海西王に立てた。大司馬呉漢らが廣楽の蘇茂を囲むと周建が救援したが敗れ、湖陵に還った。睢陽の人が反して城を挙げ劉永を迎えたが、呉漢・蓋延らが合軍して包囲し城中の食が尽きたため、劉永・蘇茂・周建は鄼に逃れた。諸将の追撃が急となり、劉永の将・慶吾が劉永の首を斬って降り、列侯に封じられた。
- 蘇茂・周建は垂惠に奔り、共に劉永の子・劉紆を梁王に立てた。佼彊は西防に還り保った。建武四年秋、捕虜将軍馬武・騎都尉王霸が垂惠の劉紆・周建を囲むと、蘇茂は五校の兵を率いて救援に赴き、劉紆・周建も出て戦ったが勝てず、周建の兄の子・周誦が反して城門を閉じて拒んだため、周建・蘇茂・劉紆はみな逃走し、周建は道中で死んだ。蘇茂は下邳に奔り董憲と合流し、劉紆は佼彊のもとへ奔った。
- 建武五年、驃騎大将軍杜茂が西防の佼彊を攻め、佼彊と劉紆は董憲のもとへ奔った。この時、平狄将軍龎萌が反叛して蓋延を襲い破り、董憲と連和し自ら東平王を称して桃郷の北に屯した。
龎萌――離反まで
- 龎萌は山陽の人。初め下江兵中に亡命し、更始が冀州牧に立て、尚書令謝躬に属して王郎を破った。謝躬が敗れると光武帝に帰降し、光武帝の即位後は侍中となった。人柄は遜順で光武帝に信愛され、帝はかつて「六尺の孤を託し百里の命を寄せうる者はこの龎萌である」と称した。
- 平狄将軍を拝され蓋延と共に董憲を撃つよう命じられたが、詔書が蓋延にのみ下り自身に及ばなかったことから、蓋延に讒言されたと疑い、反叛した。帝はこれを聞いて大いに怒り、自ら討伐に赴き、諸将に「私は常に龎萌を社稷の臣と思っていたが、老賊は族滅すべきだ、各々兵馬を励んで睢陽に会せよ」と檄した。
- 董憲は帝が自ら龎萌を討つと聞き、劉紆・蘇茂・佼彊と共に下邳を去って蘭陵に還り、蘇茂・佼彊に龎萌を助けさせ合わせて三万で桃城を急囲した。帝は蒙にあってこれを聞き、輜重を留めて自ら軽騎三千・歩卒数万で馳せ赴き、任城に師を進めた。桃郷まで六十里の地で諸将は進撃を請うたが、帝は聴かず士を休め鋭を養ってその鋒を挫かせた。城中は車駕の到来を聞き衆心はいよいよ固くなった。当時呉漢らは東郡におり、馳使して召したが、龎萌らはその間に悉兵で城を攻め二十余日で衆は疲困しながらも下せず、呉漢らが到るに及んで諸軍を率いて桃城に進み、帝自ら搏戦してこれを大破した。龎萌・蘇茂・佼彊は夜に輜重を棄てて董憲のもとへ逃げた。
龎萌――董憲の滅亡と最期
- 董憲は劉紆と共に数万の兵で昌慮に屯し、自ら精鋭を率いて新陽で拒んだが、帝は先に呉漢を遣わしてこれを破らせ、董憲は昌慮に走り還った。呉漢が進んで守ると、董憲は五校の残賊の歩騎数千を招いて建陽(昌慮を去ること三十里)に屯した。帝は蕃(董憲の所在から百余里)に至り、諸将が進撃を請うも聴かず、五校の兵糧が尽きるのを待って各々堅壁させた。まもなく五校は糧が尽きて引き去った。
- 帝は自ら四面から董憲を攻め、三日でまた大破した。衆はみな奔散し、呉漢を遣わして追撃させた。佼彊はその衆を率いて降り、蘇茂は張歩のもとへ奔り、董憲・龎萌は繒山に逃げ込んだ。数日後、吏士は董憲がなお生きていると聞き数百騎を集めて郯城に迎え入れた。呉漢らはさらに攻めて郯を抜き、董憲・龎萌は朐を保った。劉紆は帰る所を知らず、軍士の髙扈がその首を斬って降り、梁地はことごとく平定された。
- 呉漢は進んで朐を囲み、翌年城中の穀が尽きると、董憲・龎萌は密かに出て贛榆を襲い取ったが、琅邪太守陳俊がこれを攻め、董憲・龎萌は沢中に走った。呉漢が朐城を下すに及んでその妻子を悉く獲た。董憲は流涕して将士に「妻子はすでに得られた、諸卿を久しく苦しめた」と謝し、数十騎で夜に去り間道より降ろうとしたが、呉漢の校尉韓湛が追って方与で董憲を斬った。方与の人・黔陵もまた龎萌を斬り、首はみな洛陽に伝えられた。韓湛は列侯に、黔陵は関内侯に封じられた。