出自と偽称
- 王昌、一名郎。趙國邯鄲の人。卜相・星暦に明るく、常に「河北に天子の気あり」と称した。趙繆王の子・劉林(景帝七代の孫)は術数を好み任侠を行い、王郎と親しかった。
- 王莽の簒位後、長安で「成帝の子子輿」を自称した者が莽に殺される事件があった。王郎はこれに乗じて自らを真の子輿と詐称し、母はもと成帝の謳者で、殿を下る際に急に倒れ、たちまち黄気が上から下ったので身重を隠して館に就いたが、趙皇后(趙飛燕)に害されそうになったため他の子とすり替えて助かった、と偽った物語を語った。
- 子輿は十二で命を識る者・李曼卿とともに蜀へ、十七で丹陽、二十で長安に還り、中山・燕趙を転々として時を待った、と語り、劉林らはますます心を動かされ、趙國の大豪李育・張參らと結んで王郎を立てようと謀った。折しも赤眉が黄河を渡るとの噂が伝わると、劉林らは「赤眉は劉子輿を立てるだろう」と宣伝して衆心を観たところ、百姓の多くが信じた。
- 更始元年十二月、劉林らは車騎数百を率い朝に邯鄲城へ入り王宮に入り、王郎を天子に立てた。劉林は丞相、李育は大司馬、張參は大将軍となり、将帥を分遣して幽冀を徇え、州郡に檄を移して「朕は孝成皇帝の子子輿である」と称する詔を布告し、これにより趙國以北・遼東以西はみな風に靡くように従った。
光武帝との攻防
- 翌年、光武帝は薊で王郎の檄を得て南に信都へ趣き、兵を発して旁県を徇え、栢人を攻めたが下せなかった。議者は栢人を守るより鉅鹿を定めるべきと説き、光武帝は東北に転じて鉅鹿を囲んだが、王郎の太守王饒が城に拠って数十日連攻に耐えたため、耿純が「王饒を久しく囲むより大軍精鋭を邯鄲へ進め、王郎さえ誅すれば王饒は戦わず服す」と説いた。光武帝はこれを容れ、将軍鄧満に鉅鹿を守らせ、自らは邯鄲へ進んでその郭北門に屯した。
- 王郎は数度出戦して不利となり、諫議大夫杜威を遣わして節を持たせ降を請わせた。杜威は王郎を「実に成帝の遺体」と称したが、光武帝は「成帝が復生してもなお天下を得られぬのに、まして詐りの子輿においてをや」と答え、杜威が万戸侯を求めても「身の安全を望むがよい」と応じるのみであった。杜威は「邯鄲は鄙といえど力を合わせて固守すれば君臣が相率いることはない」と辞して去り、光武帝は攻めを急がせた。二十余日後、王郎の少傅李立が反間となって門を開き漢兵を引き入れ、邯鄲は陥ちた。王郎は夜に逃亡したが道で追い斬られた。