後漢書卷四十一 劉𤣥劉盆子列傳第一 劉𤣥

劉𤣥、字は聖公。光武帝の族兄で、いわゆる更始帝(?–25年)。王莽末、緑林・新市・平林の諸兵が合流するなかで擁立され、地皇四年(23年)に帝位に即いた。宛・洛陽・長安と都を移しながらも諸将を統率しきれず乱行を重ね、赤眉に敗れて降伏、まもなく殺された。漢の再興を掲げながら業を全うできなかった人物として位置づけられる。

年表(12件)

出自と挙兵前

  • 劉𤣥、字は聖公。光武帝の族兄にあたる。弟が人に殺され、聖公は客を集めて仇を報じようとしたが、その客が法を犯した。役人が聖公父子を捕えたので、詐って死んだふりをして喪を舂陵へ持ち帰らせ、聖公は逃げ隠れた。
  • 王莽末、南方が飢饉となり、民が野沢に入って鳬茈を掘って食い、争って侵奪しあった。新市の人・王匡と王鳳が争いの調停役となり、そのまま渠帥に推された。衆数百人、亡命者の馬武・王常・成丹らも加わり、離郷聚を攻めて緑林山中に隠れ、数か月で七、八千人に達した。
  • 地皇二年、荊州牧が奔命二萬人を発して攻めたが、王匡らは雲杜で迎え撃ってこれを大破し、竟陵を抜き、雲杜・安陸を転戦して婦女を多く掠め、緑林の衆は五萬余口に達した。州郡も制しえなかった。
  • 地皇三年、大疫が起こり死者は半ばに及んだため、各々分散した。王常・成丹は南郡へ入って下江兵と号し、王匡・王鳳・馬武ら、および朱鮪・張卬らは南陽へ入って新市兵と号し、みな将軍を自称した。七月、王匡らは隨を攻めたが下せず、平林の人・陳牧・廖湛がまた衆千余人を集めて平林兵と号し呼応した。聖公はここに至って陳牧らに従い、その軍の安集掾となった。

更始帝の即位

  • 同じころ、光武帝とその兄・伯升も舂陵で挙兵し、諸部と合流して進撃した。地皇四年正月、王莽の前隊大夫甄阜・属正梁丘賜を破って斬り、聖公を更始将軍と号したが、衆は多くとも統一する者がなかった。諸将は協議して更始を天子に立てることとした。
  • 二月辛巳、淯水の畔に壇場を設け、更始は帝位に即いた。群臣は懦弱で羞じ入り流汗して手を挙げるも言葉が出ないほどであった。大赦を行い、建元して更始元年とした。族父の劉良を国三老、王匡を定国上公、王鳳を成国上公、朱鮪を大司馬、伯升を大司徒、陳牧を大司空とし、残りは九卿・将軍とした。
  • 五月、伯升は宛を抜き、六月、更始は宛城に都した。宗室・諸将で列侯に封じられた者は百余人に及んだ。更始は伯升の威名を忌み、これを誅した。光禄勲劉賜を大司徒とした。
  • 前鍾武侯劉望が汝南で挙兵し、王莽の納言将軍厳尤・秩宗将軍陳茂が昆陽で敗れて劉望に帰したので、八月、劉望は自ら天子に立ち、厳尤を大司馬、陳茂を丞相とした。王莽は太師王匡・国将哀章に洛陽を守らせた。更始は定国上公王匡に洛陽を、西屏大将軍申屠建・丞相司直李松に武関を攻めさせ、三輔は震動した。海内の豪傑がこぞって呼応し、みな自らの牧守を殺して将軍を自称し、漢の年号を用いて詔命を待ったので、旬月のうちに天下に広まった。長安中でも未央宮を攻める兵が起こった。
  • 九月、東海人の公賔就が漸台で王莽を斬り、璽綬・首を宛へ伝えた。更始はこれを喜び、寵姫の韓夫人は「莽がこのようでなければ帝はどうして位を得られたでしょう」と笑った。更始は莽の首を宛城の市に懸けた。この月、洛陽を抜いて王匡・哀章を生け捕り、斬った。十月、奮威大将軍劉信に汝南で劉望を撃たせて殺し、厳尤・陳茂も誅した。更始は洛陽に北都し、劉賜を丞相とし、申屠建・李松に長安から乗輿・服御を伝送させ、中黄門・従官を遣わして遷都を迎えさせた。

更始帝の乱行

  • 更始二年二月、更始は洛陽から西に発ったが、李松が奉引していた馬が驚き北宮の鉄柱門に触れて三馬とも死んだ。当時の人はこれを馬禍とみなし、更始が道を失い滅びる兆しとした。
  • 王莽が敗れた際、未央宮のみが焼かれ、他の宮館は毀れず、宮女数千・鐘鼓帷帳・輿輦器服・太倉武庫・官府市里もすべて旧のままであった。更始は長楽宮に至り前殿に登ったが、羞じて俯き敢えて見なかった。虜掠した物の量を尋ねても左右の宮省の久吏は驚き合うのみであった。
  • 李松と棘陽の人趙萌が更始に功臣を悉く王とするよう説いたが、朱鮪は高祖の「劉氏に非ざれば王とせず」の約に反すると争った。更始はまず宗室を封じ、太常将軍劉祉を定陶王、劉賜を宛王、劉慶を燕王、劉歙を元氏王、大将軍劉嘉を漢中王、劉信を汝陰王とし、のちに王匡を比陽王、王鳳を宣城王、朱鮪を膠東王、衛尉大将軍張卬を淮陽王、廷尉大将軍王常を鄧王、執金吾大将軍廖湛を穰王、申屠建を平氏王、尚書胡殷を隨王、柱天大将軍李通を西平王、五威中郎将李軼を舞陰王、水衡大将軍成丹を襄邑王、大司空陳牧を陰平王、驃騎大将軍宋佻を潁陰王、尹尊を郾王とした。ただ朱鮪だけは「臣は劉宗に非ず、名分を犯すことはできぬ」と辞退し、左大司馬に転じられ、劉賜が前大司馬となって李軼・李通・王常らと関東を鎮撫し、李松を丞相、趙萌を右大司馬として内政を共に任じた。
  • 更始は趙萌の娘を夫人に迎えて寵愛し、政を趙萌に委ね、日夜後宮で婦人と飲宴した。群臣が事を言おうとしても酔って会えず、やむなく侍中を帷内に座らせて言葉を伝えさせた。諸将は更始の声でないと知り、みな「成敗もまだ分からぬのにこの放縦ぶりか」と怨んだ。寵姫の韓夫人は特に酒を好み、常侍が奏事すると怒って書案を投げつけた。趙萌は権を専らにして威福を恣にし、これを非難する郎吏を更始は剣を抜いて斬り、以後は誰も敢えて言わなくなった。趙萌は私怨により侍中を引かせて斬らせ、更始が救おうとしても聞かれなかった。
  • 当時、李軼・朱鮪は山東で勝手に命令を出し、王匡・張卬は三輔で横暴を働き、彼らが授けた官爵は群小・賈豎(商人)ばかりで、膳夫・庖人にまで繍面衣・錦袴・襜褕を着せる者があり、道行く人がこれを罵った。長安では「竈下養、中郎将。爛羊胃、騎都尉。爛羊頭、関内侯」との歌が流行した。豫章の李淑が上書して諫め、三公九卿の重責を戎陣出身・庸伍出身の者に軽々しく授けるべきでないと説いたが、更始は怒って李淑を詔獄に繋いだ。これより関中は離心し、四方が怨叛した。諸将は出征のたびに勝手に牧守を置き、州郡は錯乱してどちらに従うべきか分からなくなった。
  • 十二月、赤眉が西進して関に入った。更始三年正月、平陵の人方望が、更始の政が乱れて必ず敗れると見て、安陵の人弓林らと共に前の孺子劉嬰を天子に立てた。長安で劉嬰を得て臨涇に至り即位させ、数千人を集めて方望は丞相、弓林は大司馬となった。更始は李松・討難将軍蘇茂らを遣わしてこれを撃破し斬った。また蘇茂に弘農で赤眉を防がせたが敗れ、死者は千余人に及んだ。三月、李松に朱鮪と合流させて赤眉と蓩郷で戦わせたが大敗し、死者は三万余人に上った。
  • 王匡・張卬は河東を守っていたが鄧禹に破られ長安に逃げ帰った。張卬らは「赤眉は間もなく至る。長安を守るより城中を掠めて自ら富み、東の南陽へ帰り宛王らの兵を収めるべきだ」と議し、申屠建・廖湛もこれに同意して更始に説いたが、更始は怒って応じなかった。赤眉が劉盆子を立てると、更始は王匡・陳牧・成丹・趙萌に新豊を、李松に掫を守らせてこれに拒んだ。張卬・廖湛・胡殷・申屠建らは御史大夫隗囂と謀り、立秋の貙膢の日に更始を劫かそうとしたが、侍中劉能卿がこれを知って告げた。更始は病と称して張卬らを召したが、隗囂だけ来ず、更始が疑って外廬に待たせたため、張卬・廖湛・胡殷は変事を察して脱出し、申屠建のみ捕えられ斬られた。張卬・廖湛は東西の市を掠め、宮中に攻め入り、更始は大敗して妻子と共に趙萌の下へ東奔した。
  • 更始は王匡・陳牧・成丹も張卬らと同謀と疑い召したが、陳牧・成丹は先に至って斬られ、王匡は恐れて兵を率い長安に入り張卬らと合流した。李松は更始・趙萌と共に城内で王匡・張卬と月余り戦い、これを敗走させた。更始は長信宮に移った。赤眉が高陵に至ると王匡らは降り、共に兵を連ねて進んだ。更始は籠城し、李松が出戦して敗死し、赤眉は李松を生け捕った。李松の弟李汎が城門校尉であったため、赤眉が「城門を開けば兄を助ける」と言うと、李汎は開門した。九月、赤眉が入城し、更始は単騎で厨城門から逃れた。婦女たちが「陛下は城に下って謝すべし」と呼んだので、更始は下馬して拝し、また馬に乗って去った。
  • 侍中劉恭は赤眉が弟の盆子を立てたため詔獄に繋がれていたが、更始の敗を聞いて出て高陵に至った。右輔都尉厳本は更始が赤眉に誅されるのを恐れ、屯衞と称して実は幽閉した。赤眉は「聖公が降れば長沙王に封ずるが、二十日を過ぎれば受けぬ」と布告し、更始は劉恭を遣わして降を請い、赤眉将謝禄がこれを受けた。十月、更始は謝禄に従い肉袒して長楽宮に至り、盆子に璽綬を上した。赤眉は更始を庭中に座らせ殺そうとしたが、劉恭・謝禄が請うても許されず、劉恭が「臣の力は尽きた、先に死なせよ」と剣を抜き自刎しようとしたので、樊崇らが止めさせ、更始を赦して畏威侯に封じた。劉恭がさらに固請し、ついに長沙王に封じられた。
  • 更始は謝禄のもとに寓居し、劉恭も擁護したが、三輔は赤眉の暴虐に苦しみ更始を憐れんだ。張卬らはこれを憂い、謝禄に「諸営の長は聖公を奪おうと図る者が多く、兵を合わせて公を攻めれば自滅の道だ」と説いた。謝禄は従兵に更始と共に郊外で牧馬させ、そのすきに絞め殺させた。劉恭が夜にその屍を収め葬った。光武帝はこれを聞いて傷み、大司徒鄧禹に命じて霸陵に葬らせた。更始には求・歆・鯉の三子があり、翌年夏、母と共に洛陽に至った。帝は劉求を襄邑侯に封じて更始の祀を奉じさせ、劉歆を穀孰侯、劉鯉を寿光侯とした。劉求は後に咸陽侯に徙封され、卒すると子の廵が嗣ぎ、さらに灌沢侯に徙封された。廵が卒すると子の姚が嗣いだ。

史論

  • 論にいう。「周の武王は孟津で観兵し、退いて師を還した。紂はまだ討つべき時でないと考えたからである。漢の興りも、軽鋭桀黠な烏合の衆を駆って天下の万分の一にも及ばぬ力でありながら、その旌旃・書文の及ぶところ、みな戈を折り顙を頓して職命を受けたのは、漢人のみならず余思のよるところであり、また幾運の会でもあった。権を為す首(首謀者)はまず咎めを受けるものであり、陳勝・項羽ですら未だ成らなかったのに、まして凡庸な者においてをやである」。