- 梁の劉昭補注。執金吾・大長秋・太子太傅・太子少傅・将作大匠・北軍中候・城門校尉・司隷校尉を記す。
執金吾
- 一人(中二千石)。宮外の非常・水火の警戒を掌る(衛尉が宮中を巡り、金吾が外を巡って表裏をなす)。月に三度宮外を巡回し、兵器も主る(員吏二十九人)。丞一人(比千石)。緹騎二百人(秩なしだが吏に准じ俸給を受ける。輿服の導従は光り輝き道路に満ち、百官の中で最も壮麗であった。世祖〔光武帝〕が「仕官するなら執金吾たるべし」と嘆じた逸話を注に引く)。
- 武庫令一人(六百石、兵器を主る)。丞一人。
- もと式道左右中候三人(六百石。車駕出行時に前で清道を掌り、還幸時は麾を持ち宮門に至って開門させた)があったが、中興後は一人のみとなり、常置でもなくなった。中壘寺互・都船令丞尉・左右京輔都尉も省かれた。
太子太傅
- 一人(中二千石)。太子を輔導する職。師と同様の礼を受けるが官属は領さない。
大長秋
- 一人(二千石)。秦の将行を承け、宦者が務めた。景帝が大長秋と改称。士人を用いることもあったが中興後は常に宦者。中宮(皇后)の命を奉宣し、宗親への賜与・謁見の取次を掌り、中宮出行には従う。丞一人(六百石、宦者)。
- 中宮僕一人(千石、宦者、馭を主る。もと太僕として秩二千石だったが中興後は減じて長秋に属した)。
- 中宮謁者令一人(六百石、宦者)。中宮謁者三人(四百石、中章の報告を主る)。
- 中宮尚書五人(六百石、宦者、中の文書を主る)。
- 中宮私府令一人(六百石、宦者。中の蔵幣帛諸物・裁衣・浣衣を主る)。丞一人(宦者)。
- 中宮永巷令一人(六百石、宦者、宮人を主る)。丞一人(宦者)。
- 中宮黄門冗従僕射一人(六百石、宦者、中黄門冗従を主る)。
- 中宮署令一人(六百石、宦者、中宮の請署及び天子の数女騎六人を主る)。丞・復道丞各一人(復道丞は中の閣道を主る)。
- 中宮薬長一人(四百石、宦者)。
- 秦以来の詹事(長秋の上位、宦者が中の諸官を主った)は成帝が省いてその職を長秋に併合。以後、皇后の法駕出行には中謁者・中宦者の職吏が詹事を権兼し奉引を終えると罷めた。宦者誅殺後は尚書が選んだ兼職の吏一人が奉引した。長信宮(帝の祖母の宮)・長楽宮には少府一人を署とし、長秋と同様の職吏を置いた(長楽五官吏の朱瑀等がこの例。位は長秋の上、衛尉・僕〔太僕に当たる〕もあり秩は二千石で少府の上に位置した。丞は六百石。宮の主が薨じれば省き常置しない)。
太子少傅
- (二千石。輔導を職とし太子の官属をすべて主る。員吏十三人)
- 太子率更令一人(千石。庶子・舎人の交代宿直を主り、職は光禄勲に似る)。
- 太子庶子(四百石、定員なし、三署の中郎に相当)。
- 太子舎人(二百石、定員なし、交代宿衛。三署の郎中に相当。良家の子弟から選ぶ、員数十三人)。
- 太子家令一人(千石、倉穀飲食を主り、職は大司農・少府に似る)。
- 太子倉令一人(六百石、倉穀を主る)。
- 太子食官令一人(六百石、飲食を主る)。
- 太子僕一人(千石、車馬を主り、職は太僕に似る)。
- 太子厩長一人(四百石、車馬を主る)。
- 太子門大夫(六百石、旧注では職は郎将に比する。旧に左右戸将があり左右戸直郎を別置したが建武以来省かれた。四府掾属から選ばれる、員数二人)。
- 太子中庶子(六百石、員五人、職は侍中に似る)。
- 太子洗馬(比六百石、旧注では員十六人、職は謁者に似る。太子出行の際、当直の者が前導し威儀を整える。郎中から選ばれる)。
- 太子中盾一人(四百石、周衛・巡邏を主る)。
- 太子衛率一人(四百石、門衛士を主る)。
- 太子少傅に属する官は、帝の即位当初で未だ太子官属がないときはみな廃されるが、舎人のみは省かれず少府に属した。
将作大匠
- 一人(二千石。位は河南尹の次。光武帝中元二年に省き謁者に領させたが、章帝建初元年に復置した)。秦の将作少府を承け、景帝が将作大匠と改称。宗廟・路寝・宮室・陵園の木土の功を修め、桐・梓の類を道側に植える(樹木の由来を毛詩伝・陸璣『草木疏』を引いて注釈)。丞一人(六百石)。
- 左校令一人(六百石、左の工徒を掌る。丞一人、安帝が復置)。
- 右校令一人(六百石、右の工徒を掌る。丞一人、安帝が復置)。
- 前漢では左右中候・右庫・東園匠・左右前後中校士の令丞があったが、成帝が省いた。
城門校尉
- 一人(比二千石。雒陽城門十二所を掌る)。
- 司馬一人(千石、兵を主る)。城門ごとに候一人(六百石)。雒陽城十二門のうち正南の一門は平城門(宮門として候を置かず屯司馬〔秩二千石〕を置く。建武十四年九月に開門)で、北宮門は衛尉に属す。その他は上西門・雍門・広陽門・津門・小苑門・開陽門(開陽門の由来――琅邪郡開陽県の城門の柱が飛び去りこの門の楼上に来着した奇瑞にちなみ命名)・耗門・中東門・上東門・穀門・夏門を合わせ十二門(雒陽は二十四街、一街に一亭、十二城門に一門一亭)。
北軍中候
- 一人(六百石、五営を監督する。員吏七人)。
- 屯騎校尉一人(比二千石、宿衛兵を掌る。員吏百二十八人・領士七百人)。司馬一人(千石)。
- 越騎校尉一人(比二千石。「越人が内附し騎兵となった」または「才力が超越することから名づけた」の両説を注に併記。光武帝が青巾右校尉を越騎校尉と改称した由来。掌は宿衛兵、員吏百二十七人・領士七百人)。司馬一人(千石)。
- 歩兵校尉一人(比二千石。もと上林苑門の屯兵を掌った。宿衛兵を掌る。員吏七十三人・領士七百人)。司馬一人(千石)。
- 長水校尉一人(比二千石。「長水」は胡名、または長水校尉が胡騎の厩に近い長水〔中小の水名〕にちなむ二説を注記。宿衛兵を掌り烏桓の胡騎を主る。員吏百五十七人・烏桓胡騎七百三十六人)。司馬・胡騎司馬各一人(千石)。
- 射声校尉一人(比二千石。「音を聞いて射て中てる」ことに由来する名という服虔説。宿衛兵、待詔の射声を掌る。員吏百二十九人・領士七百人)。司馬一人(千石)。
- 北軍中候の管轄について、もと中壘校尉が北軍の営壘を領し、胡騎・虎賁校尉があったがいずれも武帝が置いたもの。中興後、中壘を省いて中候一人を置き五営を監督させ、胡騎は長水に、虎賁は射声に併合された。
- 秩の一覧を注記:中二千石の丞は比千石、真二千石の丞・長史は六百石、比二千石の丞は比六百石、令相千石の丞尉は四百石、六百石の丞尉は三百石、長相四百石及び三百石の丞尉はみな二百石。諸侯公主家の丞はみな比百石。諸辺鄣塞尉・諸陵校尉長はみな二百石(常例あるものは秩を署さない)。
司隷校尉
- 一人(比二千石。武帝が初めて置いた。周官に由来するとの説を注記〔征和年間の陽石公主巫蠱の獄を機に周制に依り置いたという〕)。節を持し百官以下及び京師近郡の犯法者を糾察する。もとは中都官の徒千二百人を率い巫蠱を捕らえ大姦猾を督したが後にその兵を罷めた。元帝が節を除き、成帝が省いたが、建武中に復置し一州(司隷州)を併せ領した。
- 従事史十二人――都官従事(百官の犯法を糾察。多くが河内出身で貴戚を弾劾したと注記)、功曹従事(州の選署・衆事を主る)、別駕従事(校尉巡行時に奉引し衆事を記録)、簿曹従事(財穀簿書を主る)、兵曹従事(軍事があるときに置き兵事を主る)、部郡国従事(郡国ごとに一人、文書の督促・非法の糾察を主り、州が自ら辟召するため秩は百石に准じる)。仮佐二十五人――主簿(閣下の事を記録し文書を省みる)、門亭長(州の正門を主る)、功曹書佐(選用を主る)、孝経師(経の試験監督)、月令師(時節祭祀)、律令師(法律の平定)、簿曹書佐(簿書を主る)、その他都官書佐、及び郡国ごとに典郡書佐一人(各郡の文書を主り郡吏から補し満一年で交代)。司隷の管轄下は郡七。
- 河南尹一人――京都を主り朝請を特に奉る。京兆尹・左馮翊・右扶風の三人は漢初の長安都で秩中二千石、三輔と称された。中興後、都を雒陽に移し河南郡を尹としたが、三輔は陵廟の所在地であるためその号を改めず秩のみ減じた。弘農・河内・河東の三郡は尹を置かず、馮翊・扶風及び太守丞がこれに準じる(詳細は「地理志」に載る)。